[月]瑞佐富郎の『今週のプロレス記念日』

【5月4日〜5月10日】

『2度、先に帰った男』(2002年5月5日・川崎球場)

「なんでも聞いてよね」
 初対面の人間には無愛想と思われていたそのプロレスラーは、今まさに、初めて
会ったばかりの筈の新聞記者に、意外にもそう言った。
「『ピンク面』のことならね〜(笑)」
 その新聞記者はうら若き女性だった。女性がスポーツ紙のプロレス担当になるのは珍しい。「女には向かない職業」というタイトルのミステリーがあったが…文字通り、プロレス記者も、そんな感じだ。言っても、上半身裸でこっちはいるのに、そこを女性にウロチョロされればたまったものではない。勢い、緊張も走り、互いの会話もぎこちなくなる。だが、その、社長になったばかりのレスラーは少々違っていた。例えば、彼女が質問をすれば、
「チューしてくれなきゃ、教えない(笑)」
 まあ、他のレスラー同様、教えてくれないことにかわりはないのだが…なんとも軽佻浮薄なお話。しかし、そんな彼が、その女性記者に、「お前には、なんでも喋ってやる」と言ったのは意外にも早かった。
「大相撲の力櫻(現・力皇猛)が、全日本プロレス入り」。その情報を掴んだ彼女は、早速、件の社長レスラーに真偽を問い質す。
「しっかりとした形で発表するから、それまで待って欲しい」
 いつもとは違う、社長の顔で男は答える。女は“約束”を受け入れた。ところがその数日後!
「スクープ!大相撲の力櫻、全日本プロレス入り!」
 他紙に見事なまでに見出しが躍っていた。約束など守らなかった他紙に情報を抜かれたのだ…。やむなく、全日本プロレスは緊急会見を開き、力皇の入団の事実を認める。会見が終わると、社長はスクープを横取りされ失意の女性記者に、個別に話しかけた。
「ちょっといいかな?」
 別室に2人きり、呼び出された女性記者に男はこんな風に言ったという。
「何か他に、聞きたいことはない?俺、なんでも話すから…」
“約束”を守ってくれた女性記者に対する男の気遣いだった。男の名は三沢光晴と言った。

 三沢光晴。言うまでもなく、現在のNOAHの社長であり、古くは2代目タイガーマスクに変身、そして素顔に戻るという2度の転機を鮮やかに乗り切った天才レスラーである。必ずキャンパスの音が綺麗に1つにまとまる、卓越した受け身の技術。全日本プロレス時は三冠統一ヘビー級王座を最多の通算21度防衛。昨年もGHCヘビー級王者として防衛を続け、プロレス大賞MVPに輝いたのは周知の通りの強者である。
 だが、関係者間において評価が高いのは、何よりその男気と、決して嘘をつかない性格。NOAHに旗揚げ戦のみ参戦し、直後に退団した垣原賢人は、それでもその6年後、自分の引退試合に三沢からの花が届いているのに猛感激。レフェリーのジョー樋口は、チャンピオン・カーニバル初の巴戦による決勝を裁き、その直後に行われた引退セレモニー後、いよいよリングを降りる際、驚いたという。直前に2試合を戦っていた筈の三沢が律儀に下で待っていてくれたのだ。
「ジョーさん、お疲れさまでした」と握手をし労う三沢の姿を、「忘れられない」としたジョー樋口が、今、NOAHの重鎮として鎮座ましましているのは周知の通りだ。
 だが、そんな義侠心に富んでいた筈の三沢が、同じ相手を置き、帰ってしまったことが、2度、あった…。

「“今日の試合を、最後で終わりたくない”」
 三沢はその時、電話口の向こうの悲痛な声を聞いていた。
「…と言って、家を出て行ったんです」
 それは、冬木弘道の家人からの電話であった。

 冬木弘道。“理不尽大王”なる異名のヒールとして知られ、日本マットでも最も遅咲きのエースとして90年代後半を暴れまわった、国際プロレス出身のレスラーである。だが、その後、同団体崩壊により、冬木は全日本プロレスへ移籍(1981年)。そこで、同じく若手だった三沢とは妙にウマが合ったという。そして、2人は冬木のSWS移籍(1990年)、三沢のNOAH旗揚げ(2000年)を経て、2002年、12年ぶりにリングで向かい合う。それも、シングルマッチの相手として。4月7日、有明コロシアムでのことだった(冬木が惜敗)。
 その2日後、冬木は先述の言葉を残し、後楽園ホールに向かう。自らがプロモートした大会に出場するため。しかし、試合後にある発表をすることにも決めていた。
「大腸ガン発覚により、今日の試合を持って、自分は現役を引退」…。
 だが、その冬木の目論見は見事にくつがえされる。家人の電話を受け、三沢が会場に駆けつけたのだ。事前に電話連絡を受けた冬木がそれを固辞したにもかかわらず。
「今日の試合で引退するんだって!?」
「…!ああ、今日のメインでね」
「最後なんだから、しっかり(幕引きを)やらなきゃダメだ。俺、今からそっち(会場)に行くから!」
「ええっ?いや、いいよ、来なくて」
「いや、行くから!」
 …会場に駆けつけ、電話で関係者各位との調整を終えた三沢の口から発表されたのは、僅か5日後のNOAH主催による『冬木弘道引退興行』の開催、並びに、その3週間後の、冬木の新団体(WEW)旗揚げ興行(川崎球場)へのNOAHの全面協力であった。
 その引退興行を三沢との6人タッグマッチで終えた冬木の最後の挨拶は、「今日の日のことは、一生忘れません!」試合前、残したコメントは「恥ずかしいけど…俺にも親友が1人いたということかな(照れ笑い)」
 だが、『今日の試合を最後にしたくない』という冬木の言葉の真意は、実は別のところにあった。
 冬木の手術も無事終わり、また3週間後の冬木新団体の旗揚げ興行は、NOAH勢の協力もあり、大いに盛り上がる。すると、ZERO−ONEやみちのく勢が出るメインを前に、三沢が冬木のところにやって来た。
「後はもう大丈夫だよね?じゃあ、俺、もう帰るね(笑)」
 三沢、そして、冬木が見守る先には、すっかり幸せそうな超満員の観客の姿があった。6年前の5月5日は、冬木の新団体による川崎球場大会が大成功した日だ。
 そうそう、書き忘れたが、前述の冬木の興行(4月9日)にかけつけた際、三沢は、もう1つのことを発表し、冬木に約している。
「もしも5月5日、冬木が来場出来ない事態が生じた場合、大会の全面指揮は、三沢光晴が採り、その責任を負う」

「いたの?」朦朧とする中、冬木は、傍に立っている三沢に話しかけた。三沢は試合帰り。冬木は病院のベッドの上だった。川崎大会から9ヶ月後、冬木の体は急変していた。ガンは既に手遅れだったのだ。
「お前に見られると…」
 冬木は言った。
「なんか、照れて、寝れやしないや」
 三沢は、あの言葉を、もう一度、口にした。
「じゃあ、俺、もう帰るね…」
 それが、2人の交わした、最後の言葉だった。

 冬木弘道は、2003年3月19日、永眠。
 病床で冬木は、「有明(三沢との一騎打ち)を、俺の最後の試合にしたかったよなあ…」と口癖のように言っていたという。
(了)




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