[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[10.17]プロレスごっこの究極型

 大好きだった横綱・輪島が亡くなった後に、大好きだったドン・レオ・ジョナサンが亡くなった。享年87歳。その訃報は「ジョナサン」(ファミレス)に入る直前に知った。「大好きなレスラーは誰ですか。何人か挙げてください」と問われた時に、私はジョナサンの名前を必ず入れて来た。それは80年代のファンたちがブルーザー・ブロディの名前を挙げるのと、似た感覚かも知れない。ブロディほど怪物的なキャラクターではないけど、技術的にはもっと上で、スマートで動けた。50年代後半から60年代前半が全盛期で、無類のポテンシャルを内包した規格外のモンスターだった。大好きなのはフワッと飛ぶドロップキック。運動神経が異常なほど良くてジャンプ力もあった。


※2メートル近いジョナサンは軽々とドロップキックをする。

 私が小学校の頃、ドロップキックの練習をよくした。蛍光灯からぶるさがる紐のスイッチまで身体を平行にして飛んで蹴る練習を反復したものだ。家の近くに走り高跳びの練習場を作ったお陰で、小学校の時には135センチを飛んで都大会にも出た。だから跳躍力には自信があった。目指すはミル・マスカラス式のドロップキックなのだが、私のイメージはジョナサンだった。小学校の屋上の階段の踊り場が我々の「プロレス会場」で、私はプロレスごっこの王者だった(ベルトはサントリーのエンブレムで作った。その頃から自分の防衛戦の記録を細かく付けていた)。リングネームは「マイティ清水」。マイティ井上というよりもアニメの「マイティマウス」のつもりだった。私は長身だったからマスカラスではなく、ジョナサンを手本にして試合を組み立てていた。

 父親が外務省高官のYクンの家は豪邸で、そこの大広間に何人か集まっていろんな技を試した。ジョナサンのマネをしてジャイアントスイングをやった。あれ、フルスピードで回転すると、どうなると思います? 遠心力で掛けられる相手が軽量だと、相手の身体が地面と平行になるくらいまで浮き上がるんだよね(びっくりするよ)。私は後に本物のプロレスで、そこまで浮き上がるジャイアントスイングを観たことがない(私が最高だった…)。

 ジョナサンはルー・テーズとセントルイス、シカゴ、ヒューストン、ダラス、ボストン、トロント…北米各主要都市で対戦している。ディック・ハットン王者時代にはヒューストン、ホノルルでチャレンジ。パット・オコーナー王者時代にはモントリオール、ヒューストン、トロント、ダラスで挑戦。しかし、バティ・ロジャース王者時代(1961〜1963年)の記録にはジョナサンの名前はない。ロジャースがいかに偏ったテリトリーと安心できる挑戦者を選んでいたのかがわかる。堅物(いや、常識人…)だったというジョナサンはチャラい世界王者のロジャースを認めなかったのだろう。

 60年代には地元バンクーバーでサルベージ船会社と潜水夫の会社を経営して順調だったから、プロレスの世界王座には魅力を感じなかったのかもしれない。それでもジン・キニスキー王者時代にはバンクーバー、タコマ、シアトル、ポートランドなど周辺都市で抗争をしている。他にもAWA世界王者のバーン・ガニア、WWWF王者のペドロ・モラレスとブルーノ・サンマルチノにも挑戦した。そこでベルトを巻けなくても「ジョナサン最強」を唱える人は多い。

 ちなみにプロレスごっこは小学校で終わったわけではない。高校の時には柔道の時間(外)によくクラスメートのN君とよくやった。そのN君と組んで、修学旅行の九州では宿舎の部屋で興行を打った(有料だったかも?)。島原、阿蘇、宮崎、鹿児島の4箇所でミニシリーズをやって各地で満員御礼だった(?)気がする。

 プロレスごっこは、それで終わらない。ゴング編集部でもよくやった(グローブがあったからボクシングもやったが…)。その時の私のイメージもジョナサンだった。竹内さんもプロレスごっこ好きで、編集部を離れて歌舞伎町のど真ん中の路上でやったかと思えば、高尾山の隣の城山山頂でやったりと、いろんな場所で興行(?)をした。ウォーリーのハーリー・レイスとはよく戦ったなあ。その時も私はジョナサンだった。

 87年夏にフジテレビの「夢工場」に、マスカラスが試合ではなくメキシコブースの特別ゲストとして来日した。竹内さんと一緒に会いに行く。現場には体操用のマットが敷いてあって、司会の人が「誰かマスカラスさんと試合したい人」って言ったら、間髪入れず竹内さんが手を挙げた。その勢いで竹さんが選ばれ、マスカラスとスパーリングした。ああ、私がやりたかったのに…と小さな嫉妬。あれも我々にとってはプロレスごっこの延長だったのだ。


※「87夢工場」(晴海)でミル・マスカラスvs竹内宏介が実現!

 日本にとどまらずメキシコでも…。あれは82年だったか、アカプルコの海岸の波打ち際でペペ田中君(ファンクラブ仲間で当時はUNAM=メキシコ国立自治大学の留学生。ゴングの通信員で、後にゴング編集部員にもなる)とルチャのムーヴをしていたら、珍しがってお客(?)が集まってきた。喜んでいたのはアメリカ人観光客だった。

 その夜、田中君とアレナ・コリセオ・デ・アカプルコに取材へ行く。その控室で再び2人でルチャの物真似をしていたら、それを見たアルフォンソ・ダンテスに「お前たち、ここで試合してみろ」と言われ、「オイ、みんな、集まれ!」と控室にいた選手全員が集められた。控室の一角にエンリケ・ベラ、リスマルクら10数名のルチャドールに囲まれた中で我々は試合(?)を披露する。本格的にラティゴから入って、ブリンコ(リープフロッグ)あり、ティヘラ(コルバタ)ありのハイスポットを随所に入れる。昼間に海岸でやった事をアレンジして3分くらいでまとめる。

 これが真に迫っていたのだろう。戦い終わった時に選手たちの大拍手が巻き起こった。「おいおい、どこで、誰に、そのスタイルを習ったんだ?」なんて、ベラが真顔で言ってきたのを憶えている。エストレージャたちに認められた究極のルチャごっこ…あれは二度とない経験だった。さすがにこの時はジョナサンスタイルではなかったけどね。それを観た選手たちからは「トマスとペペがアカプルコで戦っただろ。あれは凄かったな」とかなり後年まで話題に挙げられていた。アカプルコの番外名勝負として…。

 それはさておき、ジョナサン引退後に同じくリタイアしていたキニスキーとの対談を坂井圭也樹記者がバンクーバーでやった記事を思い出した。90年代初めだったか。そこでのジョナサンの言葉が忘れられない。「私がMSGに行った時のWWWFと、今のWWF(現WWE)はまったく別物だ。ただの延長線上で2つを一緒に語っては駄目。今のWWFのテレビプロレスは私たちが命を懸けて戦って来た時代のレスリングとは全く違う。そこに私は何の興味もないし、テレビを観る気にもなれない。嘆かわしいね」と。その横でキニスキーも「全くその通りだ」と相槌を打ったという。50年代〜70年代に戦って来た彼らには自分たちの職業への強いプライドと、選ばれし者の誇りがあったように思う。そんな愛しのドン・レオ・ジョナサンの冥福を祈りたい。


※ジョナサンvsキニスキーはノースウエスト地区の定番カード。

 今では相撲ごっこをする子供も、プロレスごっこをする子供や大人もいなくなってしまった。淋しい限りである。もう輪島やジョナサンのような傑物は出ないんだろうなあ。

 さて、マスク本の編集は最終工程に入った。一番大変なのは色校正。いわゆる色校である。本を出すことが優先されて色校をスルーする傾向にあるが、Gスピは違う。特にこのマスク本で正しい色を出すことは命。紙質はいつもより写真映えする写真専用の高級紙を使う。それゆえ、マスクの本当の色を印刷で出すための色校は最も神経を使うところだ。掲載した全てのマスクの色を知っているのは私だけだからね。これから数ヵ所ある印刷所まで出張して校正をする予定だ。そして来週には校了となる。ではそろそろ本の名称を発表しよう。

G SPIRITS MASK COLLECTION
ドクトル・ルチャ監修『国宝級マスク研究』

 辰巳出版から1600円(本体価格)で10月31日(水)発売。11月4日(日)の午後2時から闘道館で出版記念トークイベントを開催する。発売日から当日までに闘道館で本を購入された方は入場料2000円、それ以外の方は3000円。同誌掲載の国宝級マスクも登場予定。詳細は闘道館HPにて。






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