[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[11.21]鉄人の新事実

 いろいろご心配をおかけしました。先週の木曜日に退院しました。病名は大動脈炎症で、血中にはサルモネラ菌が入ったらしい。どっちも症例が少ないようで、医師も苦戦したみたいだ。退院後は落ちた筋力を戻すためにウォーキングをしているが、腰痛でなかなか思うように歩けない…それが現状。退院の話を聞いて、「早く、コラムを書いてください」という励ましを何人からもいただいたが、書かなくて済んだ数週間は正直、気が楽だった…。でも、期待されているのかと思うと、「やっぱ再開しなくては」と思った次第である。

 では、ゆるゆると書き始めることにしますか…。入院していたから、マスク本の売れ行きや評判を聞くことがなかったが、メキシコであの本が大評判になっているようで、3000円〜4000円で取引されているとか。いま、メキシコはちょっとしたマスクブームらしい。日本みたいにマスカラスとタイガーマスクの二極に集中せず、エル・サント、ブルー・デモン、ウラカン・ラミレス、ラヨ・デ・ハリスコ、アンヘル・ブランコ、エル・ソリタリオ、アニバルらといったレジェンドたちは相変わらず人気のようだが、それ以外にもタレントに事欠かないので選択肢が多い。さすが覆面王国メキシコ…それがマスク人気の正常な姿じゃないかと思う。

 さて、マスカラスのデビュー戦のマスクを調べる時に重要な資料となった『K.O.』誌(ノカウトと読む)。メキシコ各地の試合レポートがあることで他誌と編集方針が違うのは、あのマスク本でも触れている。同誌を読み解くことでマスカラス以外にいくつかの発見をしたことを報告しよう。このコラムのファンだという流智美くん、特にしっかり読みたまえ。あなたの大好きなルー・テーズのことだからさ。

 テーズがメキシコに初遠征したのは1954年5月21日のアレナ・コリセオ。挑戦者はゴリー・ゲレロだったことは、すでに何度も書いてきた。試合前のタイトルマッチセレモニーの写真を見てもわかるように、この時にテーズはベルトを持参していない。いわゆるテーズベルトを持参しなかった防衛戦は、何度もあったらしい。57年の豪州、アジア遠征…日本での力道山戦でもテーズはベルトなしだった。流氏曰く「未知の地区(?)に行く時は、ベルトは持参しなかった」。つまりメキシコもそうだったということになる。


※ゴリー(左)が挑戦した時はベルト無し。隣はレフェリーのエディ・パウル、立会人リト・ロメロ。

 テーズがメキシコに再遠征したのは65年3月。マスカラス首都圏デビューの4ヵ月前のことである。前年1月にテーズはトロントでバディ・ロジャースを破ってNWA世界ヘビー級王座を奪還している。この時に手にしたのが、オコーナーに端を発する、いわゆる「キニスキーベルト」。テーズはメキシコ製(マヌエル・サバラ作)のベルトを里帰りさせたのである。この時、テーズはアレナ・メヒコの控室のベルトを巻いた写真を何枚も撮らせている。ブルー・デモン、ローランド・ベラ、エル・エンフェルメロ…みんなテーズとのベルト付きのスナップを記念として撮っている。

 初日が3月5日のアレナ・メヒコ(金曜日の定期戦)。その前日にサンアントニオでディック・ザ・ブルーザーを破ってメキシコに乗り込んできたのだ。カードはテーズ&ブラック・シャドーvsレネ・グアハルド&ベニー・ギャラン。さらに翌週12日のアレナ・メヒコの定期戦にも再登場している。カードはテーズ&ブルー・デモンvsエスパント1号&2号。どちらもタッグマッチで、ベルトを巻いてリングに上がっていない。メキシコでは基本的にタイトルマッチ以外にベルト姿でリングインすることはない。「チャンピオンになって帰ってきたぞ」というアピールも、「俺はチャンピオンなんだぞ」というアピールもしないのが常である。それだけメキシコでは選手権を神聖なものとして扱っているのだ。

 アレナ・メヒコから翌週のアレナ・メヒコまで、テーズの場合、3月5日〜12日の8日間。これがEMLLのVIPガイジン用の「ワンウィーク」である(78年のレイス、81年の馬場&ドリーもそうだった)。この間、テーズはプエブラ、グアダラハラ、モンテレイなどEMLLの主要都市をサーキットするわけだが、これまでに判明している試合は、3月7日のグアダラハラだけ。テーズはエル・サントと組んでベニー・ギャラン&カルロフ・ラガルデと対戦している(2日前の同所でマスカラスが試合をしている)。

 アレナ・メヒコを日本武道館とするならば、グアダラハラのアレナ・コリセオは大阪府立体育会館。この2大会場での試合が全部タッグマッチということは、テーズはこの遠征で防衛戦をしなかったというのがこれまでの見方だった。現にゴリー・ゲレロに匹敵するような国際派のチャレンジャーがメキシコにいなかったから…というのが正直なところであろう。ところが…である。

 私は今回、『K.O.』誌でテーズが防衛戦をやった記事を発見したのだ(「おおっ!」って思ったよ)。その記事によると3月14日、アカプルコでベニー・ギャランの挑戦を受けていたのである。試合後にベルト姿でリングに立つテーズと、呆然と立ち尽くすギャランの写真も確認できたし、現地のプロモーター、ペペ・バルデスとの握手している写真もあった。


※テーズがベニー・ギャランの挑戦をアカプルコで受けた週刊『K.O.』誌の記事。

 ベニー・ギャランは1931年6月1日、自称フランスのボルドー出身だが、メキシコの関係者たちは「あれはスペイン人だよ」と言う。サイズは180センチ、86センチ。フランス、スペイン、イギリス、西ドイツ、イタリアなど欧州各国を転戦し、アメリカでの試合経験もあるジャーニーマンで、62年8月からメキシコに定着。63年4月26日、アレナ・メヒコ開場7周年記念大会でサントとマスカラ・コントラ・カベジェラをやって敗れているが、64年5月に“稲妻仮面”ラヨ・デ・ハリスコを破ってNWA世界ミドル級チャンピオンになり、最優秀外国人選手賞を獲得する。多少の出入りを繰り返しながらも68年9月までEMLLのトップルードとして活躍した。日本に置き換えるならばスタン・ハンセン級の人気常連ガイジンだったといえる。テーズも、国際経験の高いギャランだから挑戦者として指名したのかもしれない。


※ベニー・ギャランはNWA世界ミドル級王者。テーズに勝てば「飛び&飛び級」の二階級制覇だった。

 この選手権の日にちが3月14日ということは「ワンウィーク」をオーバーしているではないか。記録によれば次のテーズの試合は21日、アリゾナ州フェニックス(vsマイク・デビアス)だから、そのまま大好きなアカプルコでゆっくりバケーションを楽しんでいた可能性がある(この遠征には夫人同伴だった)。ということで、記録マニアやテーズマニアの諸君、65年3月14日、アカプルコのvsベニー・ギャランを加筆しておいてほしい。

 こうした一つの記録を見つけ出すことって、私的には大事なことと思うのだが、どうであろう…。磯田道史のように古文書をコツコツ読み解く作業は、明日の何かに繋がるかもしれない。そう信じて今後も続けたいと思う。特にテーズやマスカラスのような歴史的偉人の正史はしっかり後世に残しておきたいものである。






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