[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[1.31]日曜日に起きた不測の事態

 大塚直樹さんをゲストに招いての日曜日のトークイベント…実に有意義な時間を過ごすことができた。それにしても、大塚さんの引き出しの多さにはいつもながら驚かされる。ただ多いだけでなくて、どのタンスのどの引き出しの中に何が入っていているかを理解していて、それがきちんと整理されていること。突然、人に何を言われても、それを正確に取り出せる能力、それには本当に感服した。年月、場所も記憶も恐ろしく正確だ。


※大塚さんはとってもお話上手。飽きさせることがなく話題を展開させてもらえました。

 今回は大塚さんが大学4年間、国際プロレスのアルバイト(会場の設営や整備等)をやっていた青春時代から話をお聞きした。最初のバイトはあの1968年正月の隅田川決戦、TBSプロレス旗揚げの両国・日大講堂からだったという。そこからの4年間の経験は後々のプロレス活動に大きく活かされることになる。大学卒業後、流れからすれば国際に入社して不思議でないのに…。その頃お酒が飲めなかった大塚さんは吉原社長の毎晩の酒席に付き合えないが理由で断念。トヨタのディーラーに勤めたのが1971年春。もし、酒が飲めたら、日本のプロレス史は変わったかもしれない。

 大塚さんがトヨタの新社員になったことで、プロレスと縁が切れたと思ったら、さにあらず。「これまで誰にも言ったことなかったんですが、トヨタに勤めながら国際の試合を2箇所買って興行を打ったんですよ。福島市と足立区でした」。ええっ、大塚さんは大卒1年目の新入社員(車のセールス)の時に、飛び級(?)で既にプロモーターをやっていたのだ!調べてみると、『ビッグ・サマー・シリーズ』第4戦(7月9日)に福島県営体育館があり、最終戦に足立区体育館(8月2日)がある。「それ、それですよ。会社に言って、休みを強引にもらって、チケットを売りました。どっちもお客さんは入ってちゃんと儲かりましたよ(笑)」。発表だと福島は3500人。足立区は2500人。どちらもテレビマッチだ。

 福島大会はストロング小林vsブラックジャック・ランザのノンタイトルの前哨戦、足立区の方は同一カードでIWA世界ヘビー級選手権(ああ、セコンドのボビー・ヒーナンが再三ランザに加勢して、怒った小林が2人まとめてフォールして防衛した試合だったよね)。2つの興行と興行には、中3週テレビマッチがあったけど、「大塚興行」だけ拾ってみると、小林vsランザのストーリーが見事に完結している。そういうシリーズの柱になるストーリーの大会を任されたのだから、大塚さんがどれだけ吉原社長から信頼されていたかがうかがえる。新日本で営業を始める前にまさか国際でプロモーターをしていたとは、恐るべき興行マン!


※大塚さんが興行を買った国際の足立区大会。よく見るとお客がいっぱい入っている。

 その後トヨタを円満退社、旗揚げ前の新日本に入社して、リングアナウンサーを2年やった後に営業に異動し、アリ戦後に営業部長になる過程をたっぷりお聞きした。今回のトークイベント中での話にプラスして、そこで漏れた番外秘話を少しばかり披露してみよう。共通するのは、それらが「日曜日」に起きたということ…。

「極寒の野外で雪の中でやった試合がありましたね。宮城県の迫町です。11月なのに雪が降ってきてね、リングが薄っすら白くなって、選手は滑りながら試合していましたよ(笑)。その時はシンもいましたね」。それは73年『闘魂シリーズ第2弾』第17戦、11月25日の宮城県迫町庁舎建設予定地。その日は日曜日で14時試合開始。50キロ南にある仙台市の当日の天気を調べてみると15時から雪になっていた。メインは坂口&小鉄vsビル・ホワイト&レイ・グレーン。セミは猪木vsテリー・ルージ(ああ、寒さが骨身に凍みるカードだなあ)。

 寒過ぎる日もあれば、暑すぎる→熱すぎる日もあった。77年5月1日(日)の石垣島栄町船着場での『ゴールデン・ファイト・シリーズ』第6戦。「5月だからって舐めていたんでしょうね。気温がぐんぐん上がって、試合開始(14時)の時にはマットが熱くなって、試合中に選手たちが悲鳴をあげるくらいになってしまったんです」。石垣島は5月でも気温が30度を超える日が多い。炎天下のリングはフライパンのように焼けたのだろう。ちなみに第1試合は小林邦昭vs佐山聡。「小鉄さんが“水を撒け”と、ホースでマットを濡らしたら逆効果で、熱湯になって蒸発してもっとマットが熱くなったんですよ(笑)。みんな場外戦をしていましたよ」。メインは猪木&長州vsキラー・カール・クラップ&リック・フェララ。2−0で終わったのも納得できる。

 1日2試合…ダブルヘッダーだった興行もあった。「名古屋地区で試合した後、雨で延期になっていた新横浜駅前の試合をやったことがありましたね」。77年『アジア・チャンピオン・シリーズ』の7月31日(日)がそれ。12時30分試合開始の愛知・津島福祉会館と19時開始の新横浜駅前南口広場の連チャンだ。「“津島で試合が終わった選手から新幹線に乗って新横浜に移動しろ”という命令を出したんです。リングは2台あるから、それが可能だったわけ。でも小鉄さんが“リングアナはどうするんだ?”って気づいたんですよ。それで津島は倍賞(鉄夫)さんがやって、僕が仕方なく新横浜の前半をやりました(笑)」。

 79年『サマー・ファイト・シリーズ』の7月15日(日)にもダブルヘッダーがあった。でもこれは仕方なしではなく、最初から予定されていた試合。北海道の紋別スポーツセンター(12時)と美幌町スポーツセンター(19時)の2試合が行われた。「あれは網走のプロモーターの興行だったはずです」。紋別と美幌の距離は133キロある。車で3時間強の距離だから、紋別が15時前に終われば、美幌に何とか間に合う。メキシコで日曜日の試合のハシゴは当たり前だけど、さすがに130キロの移動はないかもね。あの日、ウルトラマンのカラータイマーは鳴りっぱなしだったはずだ。翌16日が網走総合体育館だったから、そのプロモーターは2日間で荒稼ぎしたことになる。

「ブラディ・ファイト・シリーズっていう名前は僕が考えたんですよ」。なかなか垢ぬけたセンスだ。それ以外にもパンフやポスター、Tシャツのデザインも手掛けている。大塚さんが新日本の残したものはまだまだありそうだ。


※大塚さんがデザインした猪木vsシンの74年のポスター。自分の出てない坂口さんには不評だった。

 トークショーの翌日に改めてお礼の電話を大塚さんにしたら、こんな話になった。
「僕にとって、大学4年間のアルバイトが僕の人生を変えたんですね」
「私も勉強せずに大学4年間ファンクラブをやって、ゴング編集部に出入りしたことが人生を変えました。お互いに“プロレス大学”に入学していたのかもしれないですね」
「自分で知らないうちにね(笑)」
「大塚さんは興行学部営業学科。私はマスコミ学部雑誌編集学科かな。大塚さんのお話を聞いていると、プロレスの営業が天職だったんだなあと思いました」
「本当にいい人生だったと感謝していますよ」。

 トークイベント後にレストラン『香港』で会食。新日本最初のプロモーター高梨正信シェフ(力道山お抱え料理人)がこう言われた。
「大塚さんがいなければ、アントニオ猪木も成功していないですよ」と。
 私は大きく頷いた。
 ということで、またの機会に、“大塚(プロレス)家具”の別のタンスの引き出しを開けていただければと思う。大塚さん、ご来場いただいたみなさん、本当にありがとうございました。次回のトークショーはゴールデンウィークの5月3日(木祝)です。お楽しみに!






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