[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[4.12]訃報の連鎖

 花見をして飲んだくれていたら、訃報がメキシコから連続して届いた。まず6日にマスク職人のラ・フリア(本名アルフレッド・エルナンデス・エスカミージャ)が亡くなった。私は実際に彼に会ったことはないが、1960年代からマスクを作っている長老として有名だった。1959年にルチャドールとなり、後にマスク作りを始め、エンフェルメロに見初められて大御所のブルー・デモン御用達職人になった。ルチャドールとしては一流ではなかったが、マスク職人としては一流以上だったといえる。

 そのフリアが一度だけアレナ・メヒコに出た記録を発見。それは1970年10月9日。第1試合でミロ・ベントゥラ(後のウルトラマン)と戦って敗れている。その日のメインに出ていたアニバルのマスクはフリア製だったはずだ。その後はボビー・リー、ピエロー・ジュニアなどのマスクを手掛けた。先日発売されたマスク本の出版記念イベントにも病欠しており、体調が良くないとは聞いていたが…。享年77歳。彼の魂は残されたマスクに残っているはずだ。


※2013年9月、AAAのホアキン・ロルダン代表と。とっても紳士な方だった。

 次に8日(現地時間)の朝にAAAのホアキン・ロルダン代表が亡くなった。彼の息子ドリアン・ロルダン(ルチャ・アンダーグラウンド代表)が昨年11月に来日した時に「父は癌で入院していて…」と教えてくれたが…。2007年にアントニオ・ペーニャが亡くなった後、AAAの社長は姉のマリセラ・ペーニャが就任し、夫のホアキンは代表(ディレクター)となる。そしてリングに上がってマイクを取って断を下したり、モニタールームからスタッフに指示を飛ばしたりしてアントニオ・ペーニャのやっていた役どころをそのままこなしていた(物静かな御仁で、無理をされているように映った)。

 まだペーニャが健在な頃、ホアキンは経理としてAAA事務所に居て、「さあ、入んなさい。トーニョは中で待っていますよ」って、いつも笑顔で私を迎えてくれた。私が2013年にAAAの新事務所に行った時も、本当に親切に応対してくれた。品のいい、人のいいメキシコ人の代表のような人物だった。まだ、63歳という若さだった。息子のドリアンには父ホアキンの分まで頑張ってほしいと思う。ご冥福をお祈りいたします。


※自分の載ったGスピをプレゼントされて大喜びしていたフィッシュマン。

 次なる訃報には思わず「えっ!」と声を上げてしまった。ホアキンと同じ8日に“怪魚仮面”フィッシュマンが心臓麻痺で急死した(ついこの間、私がサングレ・チカナに原稿を書くときに連絡し合っていたばかりだったのに…)。フィッシュの本名はホセ・アンヘル・ナヘラ・サンチェス。私たちはドン・ペペと呼んでいた。この人との思い出はいっぱいあり過ぎて何を書こうか困ってしまう。妻に「フィッシュが亡くなっちゃったよ」と告げると、「えっ、ホント!私にはあの辛〜い思い出しかないわよ」って。

 1984年に結婚式でメキシコに行った時のこと。フィッシュマンの車でペロ・アグアヨと一緒にパチューカへ行って、その帰り道のレストランで遅いディナーをする。フィッシュマンに「これ、絶対辛くないから食べてみなさい。美味しいから」って、妻はピーマンみたいな唐辛子(?)を食べさせられた。あまりの辛さに騒ぎ出す妻を見て素顔のフィッシュマンとアグアヨは大笑いをしていた。その場には留学中だった田中幸彦くんやカメラマンの伊ヶ崎光雄さんがいたけど、「悪かったね」って、ドン・ペペは全部一人で支払ってくれた。そんな羽振りのいいエストレージャだった時代もあったんだよ。

 私はアグアヨ&フィッシュマンという最強トリオをナマで観られたことに大きな喜びを感じている(81年の新日本でも実現したけど…)。私の観たベストバウトは79年2月18日、モンテレイでのペロ・アグアヨ&フィッシュマンvsレイ・メンドーサ&レネ・グアハルド。こんな壮絶なルチャは以後、観てない。飛ぶだけがルチャだと勘違いしている輩にはこういう試合を見せてあげたい。根底から考え方が変わるよ。Gスピの29と30号のフィッシュマンのライフストーリーをもう一度読み返してみよう。きっと「やっぱりアナタは凄かった」と呟くことだろう。66の誕生日を迎えたばかりだったのに…。ドン・ペペ…安らから眠ってくださいね。

 ドン・ペペの死で傷ついていた私に追い打ちをかける訃報が届く。“ミスター東スポ”櫻井康雄さんが10日朝、多臓器不全で亡くなった。訃報に接し、思わず「うっ!」と言葉を詰まられてしまった。具合が悪くて入院しているとは聞いていた。お見舞いにも行く予定だったのに…まさか亡くなったとは。

 土曜日には月刊ゴング御用達の「天馬」という割烹の跡地に行って来たばかり(駐輪場になっていた)。ここで昔、田鶴浜弘さん、山田隆さん、菊池孝さん、竹内宏介さん、そして櫻井さんという大先輩たちを交えて何度も座談会をやった。竹内さんは若造の私をいつもその場に連れて行ってくれた。時にはそうした重鎮たちの前で司会進行をさせてもらった。私はそこで初めて「大人の会話」というものに加わった。それは私の大きな財産となる。そんなこんなで、櫻井さんは私をとても可愛がってくれた(ありがたや…)。


※1981年4月に厚木のご自宅で撮影した櫻井さんのオフショット。私の好きな一枚。

 私のトークショーにわざわざ新宿まで来てくれたし、櫻井さんの地元の厚木でもトークイベントを開催したことがあった。誰もが思うこと…「櫻井さんにはまだいっぱい聞きたいことがあったのに…」。お元気になられたら、またトークショーのゲストとしてお呼びしたいと思っていた。「次は誰も聞いたことがないだろう、あのネタで喋ってもらおうかな」と考えていたのに…。

 私のマエストロのマエストロ…。今の私は櫻井さんのマネにもならないマネをしているだけだなあと思う。それだって櫻井さんという偉大なお手本がいたからだと感謝している。ロス・クラネオス、エル・マテマティコ、エル・レオン・ティニブラス…櫻井さんの築いたプロレスファンタジーの世界に魅せられてこの世界に入って、早や半世紀…お陰でそこから抜けられなくなったけど、それを少しでもリアルなものとして記録し、後世に残していく作業が私たちの世代のライターの使命だと思っている。

 今頃、天国で竹さんが司会をして、あのメンバーで対談の続きをしているだろうな。今週、土曜日の18時から『闘道館』での『NWA世界ミドル級王座シンポジウム&撮影会』はちょうどお通夜の開始時刻とバッティングした。だから会の冒頭で櫻井さん追悼10カウントゴングを鳴らしてご供養したいと思う。今回のシンポジウムも櫻井さんはもちろん、山田さん、菊池さん、竹内さんたちに天国から聞いてもらえるようなアカデミックものにしたいと気合を入れ直した。櫻井さん、応援してくださいね…。

 そして、この場から改めてお悔やみ申し上げます。合掌。






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