[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[10.30]最強カメラマン逝く

 ラ・パルカの死亡は誤報なんだって! 生きててホッとしたけど、こういう誤報は頭に来るなあ。さすがメヒコだと思う。「死者の日」を前に、人騒がせな誤報だ。まあ、生きていたなら、それに越したことはない。そこで一喜一憂していたら、本当の訃報が届いた。東京スポーツ新聞社の元写真部長・鈴木皓三(すずき こうぞう)さんが亡くなられたという知らせだ(10月11日に…)。この方、関係者なら誰もが認める日本プロレス界における「史上最強カメラマン」で、私にとってとても思い入れの深い人物だった。


※東スポ写真部でフィルムを選ぶ在りし日の鈴木写真部長。

 鈴木皓三さんは1941年2月18日、茅場町生まれだから、チャキチャキの江戸っ子。とはいえ、東京大空襲でよく助かったなあと思う。日本橋の紅葉川高校を卒業して、62年秋に東京スポーツ新聞社に入社し、編集局写真部に配属される。当時は川上哲治監督就任2年目の巨人軍の担当だったが、プロレスの取材もさせられた。「初めてのプロレス取材は社から “力道山の社長姿を撮って来い”と言われて、リキ・パレスの事務所に勇んで行ったんですよ。そうしたら力さんの機嫌が悪くて灰皿を投げられましたよ(苦笑)」。以後、皓三さんは日本プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの最前線で試合を、あるいは特写を、スクープを、撮り続けてきた。私は山田隆さん&櫻井康雄さん、そして鈴木皓三さんの3人がセットでプロレス黄金時代の東京スポーツを作ったと思っている。

 かつて別冊ゴングで「第一線カメラマンが選ぶ…私の一枚」という企画(他社のプロレス・カメラマン)をやった時に皓三さんがチョイスしたのが、66年2月28日、東京体育館でのジャイアント馬場vsルー・テーズのインターナショナル・ヘビー級選手権で、テーズが馬場に放ったバックドロップの有名なシーン。なぜ有名か、それには訳がある。「これはこの年から設立された“第1回報道文化省”のスポーツ部門で賞を貰ったんですよ。金一封で3000円頂いて、写真部のみんなで飲みに行きましたよ(笑)。それとこれでウチの会社の局長賞も貰っています」。ここはカメラ的に「裏を食った」位置になる。両者の顔が後ろを向いた最悪のポジションだからだ。しかし、皓三さんはテーズの顔が見えるタイミングを待ってシャッターを押している。まだモータードライブなどなかった時代だから、連写が利かない。0.1秒でも早くても、遅くてもアウト…つまりワンチャンス勝負だったのだ。


※有名なテーズが馬場をバックドロップで投げたベストショット。

 私は皓三さんとは学生時代からの顔馴染みだった。馴染みというよりも敵視されていたと言ったほうがいい。70年代には、ファンがリングサイドに勝手に入ってエプロンで写真を撮ることが黙認されていた。日本プロレス、国際プロレス、全日本プロレス、新日本プロレス…どこもそうだった。今でこそ、誰でもスマホで遠目に写真を撮れる時代になったが、あの時代、一眼レフを持った少年が会場のアチコチにいた。いわゆる「カメラ小僧」という子たちで、私も高杉正彦少年(豆タンク会長)も、その一人である。

 ファンクラブ全盛期には団体の許可を得てリングサイドに入る者も勝手に腕章を作って撮る者もいた(私たち…)。地方のどこだか忘れたけど、皓三さんに「邪魔だ!」と注意されたことがある。おそらく高杉少年も皓三さんの洗礼を受けたはずだ。場外乱闘などで、ベストポジションを取るのは絶対に皓三さんだ。押されても、肘鉄を食らわし、中央を確保して、ドシンと腰を下ろして構える姿は「鬼」だった。だから、皓三さんは怖かった。エルボーを何度も食った、その頃からの顔馴染み(?)だったというわけである。

「僕らは仕事だからね。誰にも負けないプライドを持ってやっていたよ。あれから新日本、全日本に、ファンクラブの連中をリングサイドに入れないでほしいと頼んだのも僕だしね」と、数年前に、私にそう明かしてくれた。私がゴングに入った後も、皓三さんの威圧感は凄かった。でも、私のプロ入りを喜んでくれたのは皓三さんだったし、時折り、会場で優しい言葉を掛けてくれた。プロとして仕事に厳しいが、根は優しい人だった。

「試合前に会場をくまなく歩き回ることだよ」。それは私も実践させてもらった。「試合2時間前には食事をしないこと」。これは実践できなったなあ。「前座のうちにうるさいお客がリングサイドにいないか確認すること」。なるほど、これは必要だよね。近年、プロレス会場へ行っても、こういう緊張感を持って現場を仕切るリーダー的な人がいない。我々にとってプロレス会場は「戦場」だから、皓三さんのような“鬼軍曹”は絶対、必要なのだと思った。


※あの狂虎タイガー・ジェット・シンも皓三さんには一目置いていた。

 力道山時代末期からBI時代、全日本、新日本、さらには海外…60〜80年代、皓三さんは常に最前線にいた。恐らく山田さんや櫻井さんや担当記者たちよりも「その現場」に居合わせた戦士であり、上から下まで選手たちの信頼感も歴代ナンバーワンの人だった。私は「日本マット最高の経験値を持つ男」であることを知っていたから、ここ数年、何度も皓三さんに会ってトークショーへのオファーを出していた。しかし、皓三さんはその頃からずっと体調がすぐれなかったのだ。

 最後は皓三さんから直接電話をいただいた。「清水くんにそう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、身体がねえ。僕は2日に1回、身体の血を全部入れ替えているんですよ。それで身体の調子のいい日もあれば、朝から悪い日もある。その日が気分の悪かったら、イベントに穴を開けちゃうよね。だから、絶対にという約束事ができないんですよ。申し訳ないねえ…」。私は「この人がどれだけ凄い現場に居合わせて、シャッターを押し続けてきたのか」を少しでも多くのファンに知ってもらいたい…それだけだった。

 先週、この訃報が届いた日、私は偶然にも皓三さんが載ったゴングの記事や写真を整理していた。いつか、身体が良くなったら皓三さんをトークショーに呼びたい…その日のために資料を揃えて置こうとファイルしていたのである。それをまさかここでポロリと使うことになろうとは…。無念、皓三さんは逝ってしまった。櫻井さんが亡くなった時もショックだったが、私にとっては同等のショックを受けている。この方をもっと世に出したかった、出せなかった悔しさが残る。そしてもっとたくさんお話をお聞きしたかった。まことに残念至極である。最後に皓三さんから81年当時に収録した「心の名勝負」と「大好きな選手」を披露して、はなむけとしたい。

「印象に残る試合はやはり馬場vsテーズ。それと馬場vsディック・ザ・ブルーザー、あれも凄かったなあ。一つに絞れというならアントニオ猪木vsジョニー・バレンタインかな。猪木と金髪を振り乱して戦うバレンタインは絵になったよ。最近では猪木vsスタン・ハンセンかな。好きなレスラーはフリッツ・フォン・エリックだね。70年にフリッツが日本に来た時、広島の原爆資料館に連れて行ったら、あの鬼のような男が写真説明を読みながらポロポロ涙を流していた。あれを見てレスラーの凄さと優しさを感じましたよ」

 今も「マミヤ645」を持って、腰を据えてガニ股で構える皓三さんの姿が浮かんで消えない…。改めて、ご冥福をお祈りいたします。



ドクトル・ルチャのトークイベント『ビバ・ラ・ルチャVol.42』
学生時代のウルトラセブンvs毒なし少年期のドクトル・ルチャ
『熱きプロレスマニアたちの戦国時代!1970年代ファンクラブ事情』
■日時 11月10日(日) 開場12:30 開始13:00
■会場 新宿・ネイキッドロフト(東京都新宿区百人町1−5−1 百人町ビル1F)
■チケット 3000円(当日3500円)※飲食費別。ベルトとの撮影は別途ワンコインで。
■出演 “ドクトル・ルチャ”清水 勉
■司会進行 パニコXX(喋るプロレス広辞苑)
■電話予約とウェブ予約にて ネイキッドロフト03−3205−1556(16:30〜24:00)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/reserve?event_id=130565





(C)辰巳出版