[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[2.28]日英プロレス和親条約の特使

 カーリング女子の日英対決は感動したなあ。銅メダル、おめでとー。彼女たちの故郷・常呂町のホタテを食べたくなったなあ。生牡蠣も旨い。凍ったサロマ湖をスキーで横断してオホーツクの海岸で飲んだ流氷ロックが美味かったのも思い出したよ。あれは1976年の今頃だったかなあ…。

 それはそうと、今日、2月28日はプロレス界にとって何の日か…知ってる? これは私が勝手につけたんだけど、『日欧プロレス開国記念日』っていうのはどうかな。今からちょうど、50年前の昭和43年(1968年)2月28日、国際プロレスは新たに開拓したヨーロッパ路線からトニー・チャールスら英国4選手を招いて試合をした日なんだよ。そだねー。


※トニー・チャールスの有名な宣材用写真。

 ご存知の通り、前シリーズ『TWWAタッグ・シリーズ』中、国際プロレスとブッカーのグレート東郷はギャラの支払いで揉め、外国人選手(北米人)がボイコットしたんだよね。ガイジンが試合に出ていたのは2月15日の大津市皇子山体育館まで。19日の浜松市体育館、21日のTBSテレビ中継のある浦和市小松男子高校体育館は日本人選手のみで試合をした(確かどっちも無料)。その21日、国際プロレスの吉原社長は東郷との絶縁を発表。併せて、ヨーロッパより選手を招聘することも発表している。それは顧問をしていた日本アマレス協会会長・八田一朗氏の尽力によるもので、英国ジョイント・プロのジョージ・レリスコウとの接点があったからだ。それにしても手回しの早い…吉原社長は早い時期から横暴な東郷との決別を考え、その後の新路線にも手を打っていたのであろう。それでないと、こんな早業の発表はできないはずだ。

 23日、一方の東郷は外国人選手全員を揃えて、東京ヒルトンホテルで会見を開き、国際プロレスの契約違反を訴え、27日に帰国している。この影響で予定されていた26日の松本市県営体育館、27日の甲府市民会館ホール、28日の足利市・足利学園高校体育館、3月6日の水戸・茨城県スポーツセンターは中止と発表された。つまり11戦予定されていたこのシリーズは7戦目で打ち切りになってしまったわけだ。

 しかし、足利と水戸(どっちも藩校で有名)は生き返った。東郷がアメリカに戻った27日、入れ違いで、イギリスから選手団が日本にやってきたのだ。レスリコウ自ら率いるのはトニー・チャールス、ジョー・キーガン、リー・シャロン、ジョン・フォーリーの4選手。彼らが日英同盟の最初の使者たちだった。そして足利と水戸は、最初の日程通り『日欧・決戦シリーズ』の開幕戦と第2戦にスライド使用されたのだった。手回しがいい英国勢の来日だったが、あまりにも性急なことだったので、彼らは業務用ビザを持っていなかった。そのために足利大会は無料のチャリティー大会となる(でも、テレビが生中継だったような記憶がするよ)。そだねー。


※68年2月28日、足利で日本デビューしたトニー・チャールス。

 翌3月1日に彼らは香港に飛んでワーキングビザに書き換え、4日に再来日している。香港が英国領で近場だったこと、当初より足利から水戸まで6日のオフがあったということなど、幸運も重なった。そして前シリーズで中止になった松本、甲府も新しいシリーズに組み込まれ、日本人だけで試合をした浜松もお詫びのために再編入される。それによって国際信頼は維持でき、TBSも毎週の放送枠に穴を空けずに済んだ。水戸でチャールスはシャロンと組んでいきなりTWWA世界タッグ王座(vs豊登&サンダー杉山)への挑戦。これも生中継だったよ。それから毎週、チャールスはテレビに出続ける。

 足利、水戸、松本、甲府…この4つの会場のファンたちは「西部劇」を観る予定だったのに、突然「007」を観せられたから驚いたことだろう。それまで単品の欧州選手が来たことはあっても、それらは北米経由だった。ヨーロッパの団体の選手が日本へ直行して来たことは、これが初めてだった。南蛮人で驚いた戦国末期の日本人が紅毛人(イギリス人、オランダ人)を見てさらに驚いたのと同じ現象か。それほど007プロレスは超新鮮だった。無骨な国際の選手が相手だから、余計にスマートなレスリングに見えたのかもしれない。英国チームのスキップ(?)トニー・チャールスのテクニックは洗練されていて、特に矢のようなドロップキックは凄い!と思った。

 チャールスも同シリーズ残留し、英国西部ヘビー級なる王座をグレート草津に奪われる(4月8日、岩国市体育館)。前後の防衛戦などもあって、TBSでのチャールスの露出度は多かった。そのベルトは国際崩壊後、ゴング編集部にあったよ(よく、それを巻いて遊んでいた)。今から思うと、あれは日本製だったように思うのだが…。国際にチャールスが最後に来日したのが、翌69年6月の『ダイナマイト・シリーズ』で、前年よりも扱いは低かった。でも、テレビで中継録画された草津との英国西部地区ヘビー級選手権(銚子市体育館=6月7日)とのリターンマッチやコーリン・ジョイソンとコンビネーションは目に焼き付いている。シリーズ最終戦(6月27日)が足利市月見ヶ丘学園会館。チャールスの国際は足利で始まり、足利で終わった…。そだねー。

 余談だが、チャールスは70年6月にメキシコ遠征をしている。英国紳士=リンピオとしての参戦で、アレナ・メヒコではブルー・デモン、レイ・メンドーサ、ラヨ・デ・ハリスコ、ドレル・ディクソンら組んで、エル・ソリタリオ、レネ・グアハルド、武者修行中の柴田勝久とも対戦している(ディクソンとのドロップキックの共演なんて見たかったねえ)。72年にはテネシー(ミッドアメリカン・ヘビー級王者になる)や、インディアナポリスを転戦。73年にはフロリダへ。米国でのビル・ロビンソンとは別ルートのキャッチ布教を続けた(のちにどんどんアメリカナイズされていくが…)。ゴッチのお墨付きで73年から4度、新日本に来日しているが、彼の良さを活かし切れてなかったのは残念だ。


※チャールスのドロップキックは足が揃い、弓矢のようにシャープ。

 国際においてもトニー・チャールスは露払い的な役目で、横綱のロビンソンがヨーロッパ路線第2弾の『日英チャンピオン・シリーズ』に初来日してディープなインパクトを与える。もし国際と東郷が衝突しなければ、フランク・タニーのトロント・ルートを中心に選手招聘が続けられていただろう。また東郷のことだから、もっと別のルートも模索したはずだ。そうすると、我々はヨーロッパどころか、ロビンソンに出会うことも無かったかのでは…。あるいはもっと遅れて別の形で招き入れることになったかもしれない。さらに言うならば、モンスター・ロシモフ=アンドレ・ザ・ジャイアントを世に出すことすらなかったかもしれない…。あの時、吉原社長の判断がヨーロッパへの道を開き、それは後に世界のプロレスの発展へと繋がった。それも国際プロレスだったのも良かったと、「記念日」の今日、改めて思った次第である。

 トニー・チャールスは75年にジョージア、76年にダラスでレス・ソントンとの英国コンビでタッグ王者になったりした。そういえば晩年、タイガーマスクみたいな覆面を被ってダラスでザ・チェックメイトなるヒールに変身、グレート・カブキと組んだりしたこともあったなあ。そだねー。

 そして、ちょうど3年前にアルツハイマーで亡くなったという。享年79歳。日英プロレス和親条約締結の使者としての彼の功績を改めて称えたいと思う。






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