[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[3.21]付き人よ

 貴乃花部屋の貴公俊が支度部屋で付き人に暴力を振るったことが問題になっている。なぜ、日本のスポーツ界で暴力事件が起きるのか。日本の学校の部活等(芸能も)には「先輩後輩」の厳しい上下関係があって、それがまるで上官>一兵卒の名残のように根強く幅を利かせ、根付いているからだろう(アメリカ、メキシコには先輩後輩という関係はない)。西郷どんではないが、子供の頃から近隣の先輩が後輩の面倒を、心を込めてみる薩摩の郷中教育が全国に広がっていれば、こうはならなかったかもね。

 そこをいくと角界はさらに特殊な社会で、「番付」という絶対的な階級制度があり、一枚でも下だと、例え先輩だろうが見下す気質がある。そして問題が起こると口では収まらず、自然と手が出るということなのだろうか。こうした古き悪しき体質は、いくら指導しても、そう簡単には直りそうにない。現在社会で暴力は絶対にいけないことなのだが、少し昔に遡ればプロレス界で付き人をぶん殴る行為など日常茶飯事だった(相撲でもそうだったようだが…)。ベテラン選手やレスラーOBの証言によると、「先輩レスラーたちに殴られた」話はいっぱい出てくる。

「力道山がビール瓶の入った木のケースを鈴木さんの顔に投げつけるのを目撃しました」
「猪木さんもいつも殴られていたよ」
「試合がショッパイから小鉄さんに殴られました」
「大技を使うなって風呂場に連れ込まれて殴られました」
「ガウンを畳む時の折り目が曲がっていたから、大木さんに殴られましたよ」

 こういうことは、昭和のプロレスでも日常だった。それで逃げ出した者は数知れず。我慢して残ったものが成功に近づけた…のかもしれない。


※力道山の付き人を経験した若き日の猪木寛至。

 日本プロレスの父・力道山は大相撲からいろんな風習を持ち込んだ。部屋(稽古場&合宿所)、連合稽古(合同練習)、ちゃんこ鍋、地方巡業などは明らかに相撲からプロレスに持ち込まれたもの。プロレス用語(隠語を含む)の大半も相撲からスライドしたものだ。「かわいがる」(稽古でしごくこと)、「いいとこ売る」(知ったかぶりする)、「やまいく」(怪我すること)、「害にする」(完膚なきまでやっつける)、「星」(彼女)、「金星」(美人)、「ひたちきめる」(鼻持ちならないほど格好つけること)、「北向く」(反対する)、「石炭たく」(急ぐこと)、「馬力」(お酒のこと)、「はがみする」(借金すること)、「あごかます」(頼まれことを不愛想に断ること)、「手が合う」(仲が良いこと)、「世方=よかた」(業界外の人間)、「お米」(ギャラ、お金)、「てらをきる」(上前をはねること)、「首投げを打つ」(…)。ちなみに「食らわす」=「殴る」も相撲用語だ。

 これらはプロレスの仕事をしていると自然の耳に入って来る用語で、ゴングの編集部内でも普通に交わされた言葉だが、「世方」の前では使わなかった(覚えると使いたくなるもの。今でも自然と使っているが…)。「がちんこ」、「とんぱち」、「馬鹿負け」、「鹿をきめる」、「しょっぱい」「谷町=たにまち」などは、今では業界から世間に飛び出してしまった用語だが、私は一回だけ、ある隠語を間違った場面で使って竹内さんに注意されたことがある(笑いながら…)。それが何かはセクレト。でも、そこから一度も口にしていない。

 相撲からプロレスには多くのものが流れ込んできたが、一番不思議なのは「付き人」だった(芸能界にもあるよね)。プロレス自体がアメリカからやって来た洋風プロスポーツなのに、力道山も1952年の単身米国修行で現地のプロレスを実体験したのに、翌年帰国して日本プロレス協会を発足して自らエースになったら、なぜ「関取」に戻って付き人を欲してしまったのだろうか。社長だから運転手や秘書は必要としても、付き人が必要だったかどうかは疑問だ。

 アメリカでは、昔の超売れっ子レスラーにマネージャーが付いていたが、子分や目下の雑用係ではなく、ビジネスパートナーだった。だから基本、アメリカでは何もかも選手が1人でやらなければならない。相撲の場合だと綱を締めたり、化粧回しに交換したり、荷物を持ち、洗濯をし、身辺警護をするなど身辺でやることがいっぱいありそうだが、身軽なプロレスラーには必要ないだろと思う。アメリカやメキシコじゃ、会場へは自力で行くし、会場内には控室に出番を伝える係、選手のガウンを控室に下げる係員以外、必要ない。それ以外のことは、みんな自分でやるのだ。


「随分殴られたりもしたけど、あの人の付き人をやって良かったよ」という選手も中にはいるから、100%否定しない。でも「あれはおかしいよ」と言った選手がいた。ドリー・ファンク・ジュニアだ。ドリーは私の意見を代弁するように、こんな話をしてくれた。


※ドリーが日本人サイドの控室で見たものは…。

「私が初めてガイジン控室から日本側の控室に入った時だった。それまで私は日本独自の付き人というシステムがあるのを知らなかった。彼らはツアー中、ボスたちのカバンを持ち、試合後にボスの汗を拭き、風呂に一緒に入ってまでしてボスを洗う。ババなんか靴下を履かせてもらい、足の爪まで切らせていた。あの光景には本当に驚いたよ。横綱はそうなの? ホテルでは洗濯ものを持った若手が深夜に走り回っていたな」

「ガイジンの場合、移動の世話はジョー(樋口)がやっていたし、当然自分たちの荷物は自分で持った。控室には出番を知らせに来たり、コスチュームやベルトを下げる若手選手が1人か2人出入りしていただけだよ。自分の身の回りのことはすべて自分でやる。それがプロレスビジネスの基本だよ。私は世界チャンピオンの時、カバンにタイツとジャケット、リングシューズにチャンピオンベルトを入れてアメリカ中を4年間走り回ったんだからね。よく、洗濯もした(笑)。日本のプロレス自体は素晴らしいと思ったが、あれだけはどうしても馴染めなかったよ」

 同じような話をドス・カラスもしていた。ドスはマスカラスよりも先に日本側控室に入ったルチャドールだ。「あまり気にしていなかったけど、確かにあれは不思議だった。スモウからきているシステムだなんて知らなかったよ。メキシコだと、会場近くに駐車すると子供たちがやって来て、その中の一人にスーツケースを持たせると、その子だけがタダで会場に入れるっていう暗黙のルールがある。常連の子もいた。クロネコなんて、そうだったよ。あれは付き人なのか」と笑っていた。

 若手は自分の稽古=練習と、取り組み=試合をこなしながら、付き人の激務をやり続けなければならない。相撲の場合、そこから解放されるのは十両に昇進すること、プロレスの場合は海外修行に出される時だった。そこで日本を脱出した彼らは初めて会社に縛られず、先輩に関わることなく、「自分のことは自分でやる」自由生活を始める。だから誰に聞いても「あの時期は最高だった」と言うのである。アメリカにも、カナダにも、メキシコにも、ヨーロッパにも、年功序列や厳しい上下の人間関係のない自由世界が広がっていたのだ。

 そして凱旋帰国すると「関取」扱いされ、付き人がつくというのが日本のプロレスのシステムだった。しかし、メキシコで大関まで行ったのに、帰国しても幕下のままだったのが栗栖正伸だ。アントニオ猪木の付き人だった栗栖の心境やいかに…。


※全盛期のアントニオ猪木の付き人を務めた栗栖正伸。

 GスピリッツVol.47は4月4日(水)発売になりました。次号の特集は「ジャパン・プロレス」。栗栖さんの毒舌も爆発するよ!

 ドクトル・ルチャのトークイベント『ビバ・ラ・ルチャVol. 36』は5月3日(木=憲法記念日)、午後1時より新宿ネイキッドロフトで開催(開場は12時半予定)。
ゲスト:栗栖正伸
題して『アンタら、俺を怒らせるなよ! 〜嫌われ者マサノブ・クリスの喧嘩旅〜』






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