[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[3.06]ブッチか、ブーちゃんか…

 少し遅くなってしまったけど、2月19日に両国国技館で引退セレモニーをしたブッチャーのことについて書きたい。いや、書き残しておきたい。私は控室には行かなかったけど、セレモニーを終え、記者会見を済ました後に、握手を交わした。覚えていてくれたようで、車椅子から「ヘイ!」と嬉しそうな顏をして手を握ってくれた。相変わらずゴツい掌だった。

 その日、長野県諏訪から吉沢幸一さんが出て来て、試合前からブッチャーの控室に張り付いて、話し相手をしてくれていたという。吉沢さんは月刊ゴングの初期に竹内宏介編集長をサポートして「海外に強いゴング」の基盤を作ってくれた私の大先輩で、多くのレジェンドたちと交流も深い。バリバリ売り出していた時代からブッチャーの話し相手の一人で、いろんなアドバイスを与え続けてきた。吉沢さんが来たから、ブッチャーも安心したことだろう。

 控室で吉沢さんは一枚の写真をブッチャーに手渡したという。それは大日本プロレスに来ていた当時、諏訪湖スポーツセンターの通路で撮影したスナップ写真で、竹内さん、ウォーリー山口くん、私、ペペ田中くん、吉沢さんのゴングのスタッフとブッチャーが写っていた。

 その日(1999年5月29日)、日本スポーツ出版社の泊りがけの慰労ゴルフコンペが山梨県北西にある現・北杜市であった。社長や役員連中に「宴会だけでも顔を出してよ」と言われて、ゴルフをやらない竹さんやウォーリーが来ていた。ここまで足を伸ばすのだから、竹さんもタダでは転ばない。「宴会半ばで諏訪に行こう」と裏で指令が出ていた。その夜、諏訪に大日本が来るのをチェックしていたのだ。ゴルフ場内のホテルから諏訪まで、40キロ以上ある。我々は「取材があるので…」を理由に宴会を中座し、メインに間に合うように県境越え、夜道を車で飛ばして会場へ向かったのだ。


※馬場さんが亡くなった年の5月、大日本の諏訪大会で撮影した記念写真。

 ゴング軍団の突然の来襲にブッチャーは大喜びしていたのを思い出す。その時の記念写真が上の1カット。吉沢さん曰く、ブッチャーは懐かしそうにその写真を見入っていたという。竹内さんが亡くなったことはすでに知っていた。ブッチャーの目に止まったのはウォーリーだった。「ウォーリーはどうしている?」との問いに、吉沢さんは私から報告していた病状を伝えたという。「その時のブッチャーの愕然とした表情はなかったですよ。マジで凍り付くほどショックを受けたみたい」と吉沢さんはいう。

 ブッチャーは近くにいたドリーを呼んで、その内容を伝えた。そして二人でしばし言葉を失っていたそうだ。ブッチャーやドリーにとってウォーリーとは、それほど影響力のあった人物だった。1981年春、ブッチャーが新日本へジャンプする前、いの一番にその情報をウォーリーにリークした。全日本来日期間中に猪木のポスターを裂く撮影をした表紙…ブッチャーとウォーリーの仲だから取れたスクープである(同年別冊6月号)。

 あれは1984年2月…私は結婚式を挙げるためにメキシコに飛んだ。といっても1週間の期間中、式の日以外の毎晩、何処かのアレナで取材をしていた。私たちの泊まるホテルアラメダ(新日本VIPの定宿)は、日本だったら帝国ホテル級(だが、翌85年9月の大地震で崩壊…)。そこにUWA参戦中のブッチャーも泊まっていた。到着翌日はパチューカ大会。UWAフランシスコ・フローレス代表(私たちの仲人)は危険がないよう、私のノビア(フィアンセ)に「ここの窓から試合を観戦しなさい」と3階にある小部屋を用意してくれた。しばらくすると、ブッチャーもその部屋に来ていて、同じ窓から試合を観ていた。「そうか、結婚式で来たのか、それはおめでとう」と喜ぶ呪術師。

 それから4日後の夜、私たちはメキシコ市内で結婚式を挙げた。式の衣装のまま、私たちがホテルに戻ってくると、何処かのアレナで試合を終えたのだろう…ブッチャーがロビーに座っていた。「おお、式は今夜だったのか、おめでとう。行けなく悪かったな。まあ、そこに座りない」と満面の笑顔で私たちを出迎えてくれたのだ(式にはペペ田中通信員も同行していた。彼のゴングデビューは81年11月のブッチャー初メキシコ遠征の写真)。

※メキシコに留学していたペペ田中通信員が撮った初来墨のブッチャー。

「そうだ、何かプレゼントをやろう」とブッチャーは部屋からロビーに降りて来た韓国人のワイフに指示する。そして部屋から取って来させたのは、エレファンテ(象)の置物。たぶんそれはフローレス代表からの貰い物だったようだ(フローレスは象の置物のコレクター)。それでも世界の呪術師から直接貰えれば嬉しいものだ(実はそれが入ったスーツケースが成田に届かず、他国を放浪する。1週間後にやっと届いたのを開けたら象の置物は粉々になっていた!)。ブッチャーは置物だけでは満足しなかったのか、韓国人妻が今日市内で買ったという指輪を無理やり(?)外させて、私の新妻にプレゼントしたのだ(それは今でも大事に保管している)。帰国してウォーリーにその話をしたら、「ウァー、あのドケチが超珍しい!」と驚いていた。

 そこからが長かった。ロビーで私たちを捕まえて約2時間、ブッチャー先生の講座があったのだ。話題の中心はウォーリー。「彼と俺は特別な仲なんだ…」、「レスラーと記者なんてビジネスレベルではない…」、「アイツがこんなガキだった頃から付き合いなんだ。アイツは…」と延々と話し続ける。しかし、ここまでの信頼感…ちょっとやそっとじゃ得られるものではないと思った。今回、ウォーリーの病状を聞いて、ブッチャーが絶句したというのが私にはよ〜くわかる(そういう仲でないと、山口宅の酒宴の席にブッチャーとシークが揃って遊びに来たりはしないよね)。

 ウォーリーのプロレス観戦キャリアはブッチャーから始まっている。「あの白いステテコの黒人は何者だ」。70年夏に初来日したブッチャーをテレビ観戦してから、会場に出入りし、アメリカンスクール仕込みの英語を駆使してガイジンたちに接近。ガイジンたちはこの珍妙な日本人少年に即、飛びついた。逆にウォーリーにとってガイジン選手たちは生きた教材だった。

 ブッチャーもその一人で、彼をパシリみたいにしていたのだが、両者ともにはその感覚はなく、そこには上下関係のない不思議な友情が生まれていたのだ。この少年は日本のプロレスマスコミの中でも名物となる(そこはリキパレスに毎大会出入りしていた若き日の竹さんと重なるなあ)。いろんなマスコミとの付き合いを経たウォーリーは最終的に竹さんが手駒としてゲットすることになった(そこはアメリカ全州にペンパルがいて、当初は海外の最新情報を全プロレスマスコミに提供していた吉沢さんとも重なる)。改めて、ゴングはこういう超スペシャリストの集団だったのだ。

 ブッチャーの引退セレモニーは実に素晴らしかった。プロレスラーとして、これ以上最高の引退セレモニーを観たことないし、これ以上見事な引き際はないと思った。当初、新日本移籍は失敗だと思ったが、今になって見れば、「あれで良かった」のだ。新日本へ行ったことでブッチャーは誰もが認める「日本一のガイジン」なれたからである。新間さんと初代タイガーマスクが祝福したのを見て、そう思った。「本人から決定事項として報告を受けたけど、移籍前、私はブッチャーに新日本行くのはどうか…と言いいました。でも、あれから38年してあのセレモニーを見て、結果的にブッチャーが正解と思ったですよ」と吉沢さんもそう漏らした。そして何よりもインディーとかではなく、「馬場さんのリング」で最後を終えられたことが良かったと思う。


※ブッチャーの引退を祝福した新間氏と初代タイガーマスク(撮影:梶谷晴彦)。

 ただ私的に残念だったのは、ここに竹さんとウォーリーがあの場にいないことだった。そういえば、竹さんは「ブーちゃん」と呼び、ウォーリーは「ブッチ(のおじさん)」と呼んでいたなあ。そこには愛があった。「嗚呼、あの2人にナマで見せてあげたかった!」。私にとって、そこはとっても重要だった。






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