[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[03.28]ドラゴン→鉄人→人間風車

 お彼岸が雪だったので、晴れた金曜日に池上本門寺に墓参に行く。力道山のではなく、清水家の墓参りだ。重要文化財の五重塔の真下に我が清水家の墓がある。そこで偶然、本家の長老である従兄と出会う。従兄もお墓参りに来ていたのだ。そこでこの最長老に清水家のルーツ…「ファミリーヒストリー」を訊ねてみる。その内容は意外なものだった。

 清水家は代々、大阪の道頓堀の銅板職人だったという。銅の鏡とか、銅鐸みたいなものを作り続けていた家系のようだ。跡取りでない曾祖父は明治になって東京に出てきて、証券会社を興して成功を収め、品川区大井町の豪邸に住む。現在の関西ペイントのある東大井5丁目(ここの元住所=東大井5−441が私の戸籍地)がその屋敷で、庭は都内で指折りの名園だったという(戦中の強制立ち退きで取り壊される)。

 私の祖父は京都の薬問屋の内藤家から養子として清水家に入って、曾祖父の証券会社を継ぐが、昭和大恐慌を悟って早々と店を畳んで隠居する。その後、まだ選挙がない時代、祖父は当地の名士だっただめに担ぎ上げられて品川区の区議や区長にもなったという。

“へーっ、知らなかった!”。だから、力道山の墓よりも場所のいい本門寺の一等地に墓所があるのか。曾祖父、祖父の墓石の文字が鎌倉五山第一位・建長寺の住職の筆なのも納得(俺、サラブレッドだったんじゃないか)。でも、その家系から、こうも畑違いの異端児が誕生してしまったことに我ながら呆れてしまった。


※本門寺にある清水家墓所。昭和40年代まで、かなり広いお墓の敷地だった。

 祖父の実家・京都の内藤家を辿ると、丹波守護職・八木城の城主に行きつく。それは内藤家からいただいた家系図を見て知っていた。城主の内藤貞勝は信長の命で丹波の進攻した明智光秀に城を追われる。若き城主・貞勝の後見人だったキリシタン武将・内藤ジョアン(内藤忠俊)も一緒に八木城を追われたが、こっちのほうが歴史的には有名人。ジョアン(洗礼名)は文禄の役で明との和議交渉の使者として北京まで行くなど、外交手腕に長けていたが、徳川家康のキリシタン追放令でマニラに追われた。マニラで手厚い歓迎を受けたジョアンだが、1626年に病没している。

 フィリピンは1565年に「ヌエバ・エスパーニャ副領国=メキシコ」を出港したミゲル・ロペス・デ・レガスピ提督による侵略でスペインの植民地となっていた。以後、マニラとアカプルコの間でガレオン貿易が約250年間続けられる。そう考えると、直系ではないけど、私の伝道師的な流浪の遺伝子は内藤ジョアンから来たものかも、なんて勝手に想像してしまうのである。

 ジョアンはマニラでメキシコからもたらされた銀製品などを見て、彼の地に思いを馳せたことであろう。ジョアンが果たせなかったメキシコ遠征も、内藤貞勝から十数代後の末裔のTOMAS SHIMIZU(キリシタン名ではない。ソリタリオ命名)が達成したということになるのかな。「ご先祖様、私はメヒコに辿り着きましたよ」って感じか。

 『GスピリッツVol.47』(4月4日発売)の校了後に時間ができたので、メキシコの古文書の解読作業に入った。昨年8月にメキシコで大量に複写したクリスチャン・シメット弁護士所有の資料の整理ができていなかったので、やっとそれに取り掛かったのだ。すると、今まで勝手に間違って思い込んでいたことや新発見がいろいろ出て来た。ここから数週間、それらの新発見のこぼれネタを少しずつこのコラムで報告していきたいと思う。

 さて、何処から手をつけようか。日本と深い関係のあったUWAの記録の一部を見てみる。藤波辰巳がルードのリング・フヒナミとして米国カロライナからメキシコ入りしたのは77年春。着いて間もなく、5月22日のパラシオでエル・ソリタリオのUWA世界ライトヘビー級王座に挑戦する幸運に恵まれる。当然、これがメインになるはずが、突然、グラン浜田vsレネ・グアハルドの遺恨マッチ(ノンタイトルなのに)がメインに組まれる(浜やんの横槍か!?)。セミはビジャノ1号vsソロ・プラテアドvsエル・マテマティコvsウルトラマンの4ウェイのマスカラ戦。藤波のメキシコ修行最大の晴れ舞台は結局、セミ前に降格されてしまった。


※77年にメキシコ入りした頃の藤波。90キロは切っていたのではないか。

 7月5日のパラシオ大会。リンピオに転向した藤波は何と“鉄人”ルー・テーズと組むという光栄に浴する。カードはテーズ&アニバル&フヒナミvsレイ・メンドーサ&アンヘル・ブランコ&セサール・バレンティーノという6人タッグ。しかし、この時もセミ。メインはグアハルドvs浜田のUWA世界ミドル級選手権だった。そんな藤波は年末に会社命令でメキシコを去り、ロス経由で雪のニューヨークMSGへ入って、サクセスする。

 それが定説になっているが、藤波は年を越してもまだメキシコにいた。キラー・カーン(テムヒン・エル・モンゴル)はこう証言する。「辰っつあんとは行き違いじゃないよ。俺、メヒコで会っているもん。彼は“メキシコを出たくない”って言っていたよ。なぜかわかる?」。小澤が日本を立ったのは12月13日で、メキシコに到着して18日のトレオの定期戦(毎週日曜日開催)を私服で視察している。

 だから、その年末あたりに会ったのかなと思っていたら、藤波は1月の試合にもまだ出ていたのだ。78年エル・トレオのオープニングマッチは1月8日で、メインはアニバルvsアメリカ・サルバヘのUWA世界ミドル級選手権。そのセミに藤波が出ている。それもテムヒンと対戦しているではないか。カードはドクトル・ワグナー&グラン浜田&フヒナミvsテムヒン・エル・モンゴル&カネック&アンヘル・ブランコの6人タッグ。テムヒンは翌週デビューと思われていたが、ここがメキシコ初戦だった。若手時代からたくさん対戦して来た年下の先輩と1年半ぶりに対戦したことになる。この記録を見つけて「何だ、小澤さん、藤波さんと会っているどころか、戦っているじゃない」と溜息が出た…。藤波は、この試合を最後にメヒコから去った。

 もっと興味深い記録も発見した。81年5月1日(当日は金曜日、メイデーで祭日)のトレオで猪木がボブ・バックランドのWWF王座に挑戦した試合はご存知の方も多いだろう。セミがカネックvs藤波のUWA世界戦。セミ前にビル・ロビンソンが出ていたから、猪木とロビンソンは同じ控室に居合わせたことになる。このバックランドvs猪木の特別レフェリーをしたのがテーズ。私はこの試合のためにテーズが呼ばれたのだとずっと思っていた。

 しかし、実際は違った。鉄人は試合をしにメキシコに来ていたのだ。テーズは3週間も前にメキシコに入って、UWAサーキットで試合をしていたのである。4月12日のトレオでテーズはロビンソン&小林邦昭と組んでストロング小林&レイ・メンドーサ&スコルピオと対戦。翌週19日のトレオはメンドーサと所がブファロ・アレン(バットニュース)に代わっただけのカード。さらに26日のトレオはエンリケ・ベラ&邦昭とのトリオでカネック&エリック・エンブリー&ストロング小林というカードが組まれた。


※テーズとストロング小林の攻防(81年4月16日=ピスタ・レボルシオン)

 実はこの日、テーズの出場予定はなく、セミのそこにはロビンソンが入っていた。しかし、メインに出るはずのソリタリオが飛行機トラブルでトレオに間に合わず、急遽、ロビンソンがメインに回ってバックランドと浜田と組み、セミにテーズが入ることになったのだ。それにしても邦昭にとっては幸運3連戦で、ストロング小林にとってはきつい3連戦だったであろう。前年までテネシー地区でCWA世界王座を賭けて戦っていたロビンソンとテーズがメキシコでは合体…こんな貴重なカードが観られたトレオのファンは羨ましい。ちなみに猪木はメキシコに来るといつもワンマッチばかりだが、バックランドは先乗りして1週間サーキットをしていた。タイガーマスク登場やガイジン引き抜き戦争で揺れた81年の日本マット。同じ年、UWAは計38名が出入りしたガイジン天国の年だったのである。

 次週も「へーっ、そうだったんだ」というような、こういう記録や文書を掘り返して行こうと思う。

 ドクトル・ルチャのトークイベント『ビバ・ラ・ルチャVol. 36』は5月3日(木=憲法記念日)、午後1時より新宿ネイキッドロフトで開催(開場は12時半予定)。
ゲスト:栗栖正伸
題して『アンタら、俺を怒らせるなよ! 〜嫌われ者マサノブ・クリスの喧嘩旅〜』







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