[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[3.13]奇々怪々な血脈

 お通夜と葬儀は来週だけど、さっき、ウォーリーに会ってきた。小佐野くんと一緒に…。ウォーリーは眠っているような穏やかな顔をしていてるが、今にも大きな口を開けて、いびきをかき出しそうだった。葬儀場には奥さん、息子さんだけでなく、お母さん(お久しぶり!)、おばさんたちも揃ってやってきた。そして私の知らないウォーリーの幼少時から、奇々怪々な山口家の昔話をたくさん聞かせてくれた。やはり、このファミリーは「変だ!」。


※83年正月、マスカラスにピラニアインタビュー。

 アカプルコからメキシコシティに戻ったマスカラスに訃報を伝えたら、「オーッ、NO。ウォーリーも…。デストロイヤーを追うように…」と絶句。デストロイヤーの訃報もいの一番に伝えたばかりだから、Wショックだったようだ。

 ウォーリーがマスカラスと仲良くなったのは77年2月からか。竹内さんとマスカラスと一緒に銀座や神宮外苑のランニングを特写したこともあったね。マスカラスはゴング編集部や竹内さんの自宅に何度も遊びに来た。ウォーリーはいつもセッティングと通訳をしていた。竹さんとウォーリーはマスカラスを編集部内で「アミちゃん」と呼んでいた(アミとはアミーゴのことである)。いろんな思い出を書き始めたらきりがないほどある。

 ウォーリーの初渡米はアメリカンスクールの中学3年(日本流なら)の時にボーイスカウトのジャンボリーに参加した際のこと(横田基地からのフライトだったという)。行先は大穀倉地帯と森林ばかりのアイダホ州。でも彼の真の目的はキャンプではなく本場でプロレス観戦することで、ジャンボリー後の自由行動でロスへ向かう。そこで憧れのオリンピック・オーデトリアムへ行ったのである。15歳の子供とは思えぬ大胆な単独行動だ!

 ウォーリーの証言から調べて直してみると、それは1973年8月15日のTVマッチだったことがわかる。その日のカードはパク・ソン&ミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)vsルーベン・フアレス&ラウル・レイジェス、ジョン・トロスvsトニー・ロコ、フレッド・ブラッシーvsザ・テキサス(3秒で終わったという)、コロソ・コロセッティ&グレート・ヤマモト(星野勘太郎)vsマンド・ロペス&エル・ネグロ、アール・メイナードvsジャン・マドリード(これで間違いない!)。そこでこの小僧は星野さんと出会い、サンバナディーノ、ベーカーズフィールドなどロス地区サーキットを一緒に回る。その車中で“プロレス裏話”をいろいろ聞かされていたというから驚きだ。


※73年8月、ロスで星野やコロセッティと仲良くなる。

 8月24日のオリンピック金曜定期戦は王者ビクター・リベラvsジョン・トロス(王座移動)のアメリカス戦。猪木&坂口も出る日だったが、ウォーリー少年はそれを蹴ってハワイに飛んでいる。そこの叔父さん(?)の家で下宿生活を始める。プロレスを観るためだけの行動だ。64年以降、プロレスで使われなくなった力道山vsテーズをやったシビックセンターや豊登が猪木を強奪したパゴダホテルなどを徘徊。現地在住のマニアの第一人者ジョージ・T・ベップ氏(地元の郵便局員でゴングの通信員など広くハワイの情報を世界に発信していた)と合流して親交を深めたという。

 ウォーリーの最大の狙いはHIC(ハワイ・インターナショナル・センタ=現ニール・ブレジデル・センター)でのビッグショーだった。それは8月22日大会だと確信する。その日のカード。メインはレイ・スティーブンス&ニック・ボックウィンクルvsビル・ロビンソン&ケン・パテラ、ペドロ・モラレスvsエド・フランシス(当地のプロモーター)、サム・スティンボートvsハードボイルド・ハガティ、ビル・フランシスvsトニー・ボーン、リッパー・コリンズ&ベティ・ニコライvsポール・ジョーンズ&ジェーン・アントン(男女混合タッグ)。これだろう…15歳のガキがスゲーもの観ているなあ。ウォーリーの病床でこのロスとホノルルの試合カードを耳元言い聞かせていれば、「イエース」「オー、イエイ」と頷きながら、あと半年は寿命が延びたのでは…と思うよ。

 この15歳の米国放浪の経験が原動力となり、次なるアメリカ行きを狙う引き金になった。その後、改めてハワイに留学し、そしてゴングへのアプローチに繋がっていくのである。こんなことを息子にさせていた親も普通でなかった。親父は『スターウォーズ』のヨーダに似ていたから、家族の中で今でも「ヨーダ」と呼ばれている。イタリアンレストラン、花屋、アパレル等の多角経営者にして発明家で、華道家…10年先を読みすぎて失敗も重ねる(将棋が好きで、自宅で小学生との対局中に相手のチョンボに怒って卒倒し急死)。


※父親のヨーダと幼少期のウォーリー。

 ヨーダの兄は作家・山口瞳で、ヨーダと正反対の神経質な人だったという。瞳さんとヨーダの父親は佐賀から出て来てガソリンスタンドの組み上げポンプを作った発明家で、母親は横須賀の柏木田遊郭の経営者の娘(相当の女傑だったらしい)。それは山口瞳の著書『血族』に数奇なルーツとして書き残されている。『血族』はテレビドラマ化され、ゴング編集部内でも話題となる。「山口家の人間は誰一人、サラリーマンにはなれない」という血の不思議があった。ヨーダ、ウォーリー、弟のシュン(ボストンの画家で、WWEコメンテイター)の生きざまを見ると、まさしくその通り。聞けばウォーリーの息子たちも外国ミージシャンのブッカーみたいなことをしているという(やっぱり!)。

 ウォーリーは山口家代々の中で、奇人の血を最も濃く受け継ぎ、そのパワーを存分に発揮した一生だと思う(おばさんたちも、そう言っていた)。私も62年間生きて来て、こんな人を他に見たことない。この世に二人といない唯一無二の人物だと思う。性格を理解できない人間からは嫌われることがある。でも、本人は意に介さず、常にあっけらかんとしている。人に怒られようが、そんなことへいちゃら。でも偉ぶらない。自慢もしない。群れることが好きで、寄ってくる人の中から子分を作るのが上手い。悩みなどなくノー天気を貫く。そして愛嬌がある。あの性格を見習えたら世の中楽だろうけど、絶対無理だ(全盛期には馬場夫妻から給料を貰い、同時に新間寿氏からお小遣いを貰っていた男…う〜ん、恐るべし)。

 昔から竹内さんや私は彼を「おっさん」と呼んでいた。老け顔だったからだ。早く大人の世界に入り込み、大人びていたからだともいえる。でも、本人はそう言われるのが好きではかったようだ。それを察していつからか竹さんは「ユウ(雄介だから)」、私は愛称の「ウォーリー」と呼ぶようになった(新間さんはずっと「ピラニア」だったけど…)。

「やっぱ、ウォーリーには敵わなかったよ」。最近、私が彼によく漏らしていた言葉だ。すると、「何がさ」と返してくる。「すべてだよ」(やって来たことのスケールが)。「いや、会長さん(彼は長く私をそう呼び続けていた)は凄いよ」と私を立てて気分よくさせてくれる。いつでもそうだった。私は「どこが」と返すと、ウォーリーは「すべてだよ」と笑う…。いや、そんなことはない。竹内さん、ウォーリーという傑物が揃って、私の今日があるのだと思う。この2人と仕事(と遊びを)していた時間は親と一緒にいる時間より長かったのでは…。あの最強のワギダの血には誰一人勝てないよ。血といえば人を流血させるのは好きだったけど、軽い切り傷など自分の血を見ると卒倒した(本当に奇妙な性格だったなあ)。
 
 葬儀は一週後だけど、この場で改めてご冥福をお祈りしたい。グッドバイ、ウォーリー…。






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