[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[5.30]そうだ、大村へ行こう!

 九州の旅は続く。先週は長崎県平戸市について書いたが、今回も長崎県を旅する…。

 平戸の日は佐世保泊。佐世保バーガーを食べて、翌日に西海を経て長崎市へ。ここまでの所用を全部済ませて、長崎市内で泊まるか、諫早まで行くか、大村へ行くか悩む。そして先々を考えて大村を選んだ。1993年夏以来の大村市だった。と言っても、長崎空港(世界初の海上空港)が大村にあるので、長崎市国際体育館で取材した折、空港行きバスは必ず大村市内を通った。大村湾を望む風光明媚な町である。

 長崎県は長崎市、軍港の佐世保市、3つの海の囲まれた諫早市、雲仙の島原市、平地の少ない川棚町、温泉の小浜町、壱岐の郷ノ浦、対馬の厳原町、五島列島の福江など広域でプロレス巡業をやってきた。大村は市営球場の後、市民体育館を77年に使用し、80年2月27日の全日本はここからテレビ中継をした。4日前の鹿児島で鶴田を倒してUNヘビー級王座を奪ったディック・マードックがタイガー戸口と初防衛戦を行ったのだ。セミはドス・カラスvsドクトル・ワグナーのタイトルマッチ(3月2日=後楽園ホール)の前哨戦だった。


※大村にベルトを巻いて登場したドス・カラス(80年2月27日)

それは全日本から「UWA認定メキシコ・ライトヘビー級選手権」と発表されたが、そんなタイトルは実在しない。実はあの時点で「メキシコ・ナショナル・ライトヘビー級チャンピオン」(メキシコのルチャ&ボクシング・コミッショナー認定)はワグナーだった。それは前年11月にトレオでアストロ・レイから奪ったもの。そのシリーズにドスが持参したのはかつて保持していた「メキシコ州ライトヘビー級」のベルトで、ナショナル・ライトヘビー級のものとは全く違う。ナショナルがメキシコ国の全体を指すならば、メキシコ州は首都圏王座、日本ならば「23区外、東京都下王座」みたいな地域タイトルだ。そんなローカルベルトで後楽園のメインイベントでやったわけである(当時から私はあらら…と思っていた)。

 帰国後の3月23日のエル・トレオではワグナーにドスが挑戦するナショナル選手権が行われた。さらに4月26日のアパトラコでも同じタイトルマッチが行われている(どっちもワグナーの防衛)。あの時点でキャリアが10年以上違うワグナーのほうがドスより本国では全然格上だったのだ。「どの程度?」と問われれば、「大関=ワグナー、前頭2枚目=ドス」くらいかな。つまりその頃のマスカラス・ブラザースは「横綱&前頭」の合体チームだったのだ。

 逆の視点からすると、ドスは見事に全日本の期待に応えて三役昇進するほどの才能と順応性を披露したということになる。大村は日本初のキリシタン大名・大村純忠が収めた地で南蛮貿易も盛んだった。ドスもワグナーも、いわゆる南蛮人(スペイン人&ポルトガル人)の血が入っていて、カトリック信者であるというのも面白い。あとになって現地で聞いた話では、テレビで見たあの時の大村市民体育館はもう無いらしい。

 大村…ここでどうしても行っておきたかった場所があった。力道山の墓所である。力道山の墓といえば、大田区池上の本門寺が有名。しかし、力道山が育ったここ大村にもお墓があるのだ。没後20年に力道山の出版ブームがあって、83年9月『力道山』の増刊を任されて作った時に、この墓の存在を知り、佐藤写真部長の長崎出張のついでにお寺に寄ってもらった。その時は分骨された墓ということだけで、それ以上はわからなかった。あの時代、力道山が北朝鮮生まれであることが世間的に伏せられていたので、大村に関しては、あまりディープに触れず触らず、やんわりした感じで「出身の地」とされていたのだ。


※大村市の長安寺の本堂。石段を登り詰めるとアーチがある。

 大村まで来たならば力道山の墓前で手を合わせなくては…“プロレスの父”へ感謝を示さなければバチが当たる。取材という意味ではなく、ただひたすらお参りしたい気持ちで「浄土宗 白龍山 長安寺」へ足を向ける。お寺は大村駅の裏手の小高い山の上にあった。ここからは市内や大村湾が一望できる。境内に入って周囲をキョロキョロするが、本門寺のように「力道山の墓所あちら→」というような看板はない。私は全国のよく有名武将の菩提寺でお墓参りをする。看板がある場合もあるが、無い場合でも立派な五輪塔や周囲を見下ろせるような墓地の一等地を探せば、自力でそれらを見つけられる自信がある。

 ところが、メキシコへ行って、広大な墓地から有名ルチャドールの墓を見つけるのは至難の業だ。そういう時、いつも私の頭には『続夕陽のガンマン』のラストの巨大墓地を駆け巡るシーンとともに「黄金のエクスタシー」の曲が鳴り響くのだ。エル・ソリタリオの墓も、墓地の受付で「本名・没年月日」を伝えないと決して辿り着けなかった。ディアブロ・ベラスコの墓は祭日で受付が閉まっていた…。途方に暮れながら墓地をぐるぐる走り回った。だから、ここは正攻法でお寺に頭を下げて「力道山のお墓を…」とお聞きすることにした。

 案内して下さったのはご住職の一つ下の弟さんだった。「百田家」の墓は日当たりのいい傾斜した墓地の中央にあって、やはり自力で見つけるのには時間がかかったかもしれない。ゆっくり、様々な思いを胸に…墓前で手を合わせた。改めて見ると、墓石が意外と新しく、綺麗に手入れされている。お隣、同じ区画に「小方家之墓」があった。

 弟さんにお聞きすると、「こちらの小方さんの家が百田家の墓守をされているはずですよ」と説明してくれた。百田家の墓石の側面には「昭和58年5月吉日建々」と刻まれていたから、1983年5月といえばIWGPの頃に石を新しくしたのか…。力道山の増刊を作ったのはその年の秋だから、「大村にある墓」は百田家からリークしてくれたネタだったのかもしれない。


※百田家の墓所は緑に囲まれてあった。右隣が小方家の墓。

 続いて墓石の逆の側面を見てみる。そこには戒名が3つ並んでいた。右は「浄慎院善誉光道信士 昭和25年5月5日 己之吉 六十九才」。これは力道山の養父だ。中は「大光院力道日源居士 昭和38年12月15日 光浩 三十九才」。これは本門寺と同じ力道山の戒名。ここに力道山が眠っているのは間違いない。それも親子で…。それを確認できただけで、十分満足だった。

 そして一番左には女性の名前が刻まれていた。「寒月院和光妙文大姉 昭和40年12月20日 44歳」とあった。私は咄嗟に「この方は?」と訊ねると、「力道山のお姉さんでしょうかね」と弟さん。「妙」の文字が付いているから、南無妙法蓮華経の日蓮宗の戒名であることがわかる。本門寺は日蓮宗の大本山だから、力道山もこの女性も浄土宗のこのお寺に分骨されてきたであろうことがわかる。

 陽も傾いてきた。『続夕陽のドクトル』はここで退散することにする。まだ、この日の大村の宿を押さえていなかった。「今夜は何を食おうか、大村の名物は何なのか…」。朝から飯らしいものは何も食べてなかったから、さすがに腹が減っていた。それで弟さんとお寺にお礼を言って去ろうとした。確かに普通の墓参ならばこれで十分…。でも、何か腑に落ちない点があった。

 と、ここで私の刑事魂(?)に火が入った(『砂の器』の今西警部=丹波哲郎の気分)。墓石に刻まれていた気になることが大きく膨らんだからである。きびすを返して、お寺の事務所へ向かった。「すみません。力道山のことで教えていただきたいことがあるんですが…」。私はそこから1時間以上、お寺に上がり込み、さら2時間後に再びお寺を訪ねることになる。

 この先は来週にしよう…。






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