[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[6.06]義父との絆、そして感謝

 私は長崎県大村市の長安寺にいた。分骨された力道山、百田家の墓参りをするためだった。でも、帰り際に「このままで帰ったら、あとで後悔するかも…」と引き返し、お寺の事務所に行く。どうしても納得するまで調べたいことがあったからだ。

 墓石に刻まれていた力道山の義父・百田己之吉さん。長崎の実業家だった己之吉氏は二所ノ関の後援会長で朝鮮から力道山をスカウトし、後援した人物。力道山の本名は金信洛(キム・シンラク)で、日本統治下の朝鮮・新豊里に生まれる。1924年11月14日生まれだが、3歳くらいサバ読んでいるともいわれている。「そうかもしれんね」とご住職。1939年に大村に連れて来たといわれる。額面通りの年齢なら15歳。1940年5月場所が初土俵だから、それだと大村にはほとんど居なかったことになる。最初、力道山は朝鮮出身力士で番付に載っているが、その後、養子縁組して百田姓となったといわれている。

 幕下で全勝優勝した1944年5月場所の番付を見ると、力道山光吉(最初は本名で力道山信洛、1942年から光吉、この次の場所から光浩)は、出身地が「肥前」(長崎・佐賀)となっているが、キム・ドクの父の龍錦一郎(西本一郎)の出身は「朝鮮」のままだ(龍錦は力道山の同部屋で2年先輩にあたる)。この番付表をさらに詳しく見ると「甲斐」(山梨県)出身の「甲斐勝」の名も発見した。ジャンボ鶴田の叔父・鶴田勝さんだ(こちらも力道山より2年先輩で1950年1月に二所ノ関に移籍)。


※昭和19年5月場所の番付表。力道山の他に戸口の父、鶴田の叔父がいた。

 力道山にとって百田己之吉さんは実父以上の存在、日本の父であったことだろう。墓石に「昭和二十五年五月五日 己之吉 六十九才」とある。終戦から5年目、義父は亡くなり、この墓に入った。この年(1950年)の9月には関脇・力道山は髷を切って廃業している。親方との衝突など廃業の理由は諸説あるが、私は義父・己之吉さんという大事な後ろ盾を失ったことが大きかったのではないかと推察する。私の相手をしながら、いろいろ資料を調べてくださったのはご住職の2つ下に弟さん。暫くするとご住職も帰って来て2人で探し物をしてくれた。

「力道山は巡業で九州に来ると必ず、ここにお墓参りに来ていましたよ。私たちの父で、先代の住職がいつもお相手をしていました。私はまだ子供でしたが、握手をしてもらったら凄く硬い手をしていたのでびっくりしました」とご住職が当時を振り返る。「その頃は長崎市や佐世保でよく試合をしていましたね。その度に力道山はここに立ち寄ったんです」。

 古いところでは1954年8月30日が佐世保公会堂で、翌31日は長崎の競輪場だった。ハンス・シュナーベルやルー・ニューマンが来た大会だ。原爆投下から9年目に長崎でアメリカから来た新種のプロスポーツの興行が打たれたことになる。次が1955年8月15日の佐世保(会場名不明)。「そう、大村にも一度だけ力道山のプロレスが来ましたね」。それは1956年8月13日の大村市営球場。タム・ライスが初来日したシリーズだ。ここで力道山は「地元凱旋興行」をしたことになる。ここまでで気づいたのは長崎県下の興行が全部、お盆シーズンだということだ。長崎のお盆といえば精霊流しが有名なのだが、力道山は義父の魂が戻るお盆に合わせて長崎のコースを切らせたのではないだろうか。ボボ・ブラジルが初来日した翌1957年8月も吉井町と福江市…ここでも長崎県をコースに入れている。

 住職の弟さんは面白い話をしてくれた。
「大村は競艇の発祥の地なんですよ。大村湾は入り江が深くて波が静かですからね。競艇選手養成所もここにあって、私の同級生の父親も一期生で選手でしたよ。競艇の初開催が1952年春だから、力道山がプロレスラーを始めようとしていた時期ですかね。競艇を観に県外からも団体バスや電車とかで大勢が大村に押し寄せたんです。競艇が盛んすぎて他の興行的なものは向いてなかったかもしれないですね。競艇では力道山賞とかが行われて、プレゼンターで力道山本人が来られてことがあります」


※力道山は大村競艇の功労者。「力道山賞争奪戦」の表彰式の風景。

 それが1956年頃だというから大村市営球場で試合をした前後かもしれない。「力道山賞争奪戦」と銘打ったレースで日本初の地で競艇を盛り上げた。「力道山は郷土の英雄」というイメージが大村市民にも浸透していく。頻繁に大村を訪れて墓参することは力道山が日本人になり切ろうとするアピールとも受け取れる。いや、それよりも義父への感謝と、義父の故郷を自分のお国として愛そうとしたのだろうと思う。

 お盆から日程が外れたのは1958年。この年はプロレス人気が落ち込み、秋までほとんど試合らしきものがなく、力道山は8月にハワイに居た。秋から興行が再開して10月15日、長崎市民グラウンドに来た。ドン・レオ・ジョナサンやスカイ・ハイ・リーが来た巨人シリーズだ。プロレス人気復活のため起死回生の企画、第1回ワールドリーグ戦が開催された1959年と、馬場&猪木が入門した1960年は長崎県にプロレスはやって来なかった。なぜだろう…。私はこの時期に安保騒動があったからだと睨んだ。長崎市は被爆地で、佐世保にはアメリカ海軍第七艦隊の基地があるから、反米感情が激化していたこの時期の興行を避けたのだと思う。

 空白期間に佐世保に市営体育館が出来て1961年1月にここへ来る。メインは力道山&豊登vsラッキー・シモノビッチ&ロード・ブレアース。同年5月の『第3回ワールドリーグ戦』では力道山&豊登&遠藤幸吉vsミスターX&アイク・アーキンス&ジム・ライトがメインだった。

 1962年は5月と10月に長崎市大会があった。ここから長崎国際体育館が使用された。5月2日は力道山&豊登&遠藤幸吉vsフレッド・ブラッシー&バディ・オースチン&デューク・ホフマン。10月26日は力道山vsスカル・マーフィーがメイン。5月に力道山が初めて長崎に来たのには意味があった。義父・百田己之吉さんの13回忌の法要があったからだ。喪主は力道山だったようだ。

「私の父親がその法要を取り仕切りました。力道山がやって来て、地元の人たちも大勢見学に集まって、あれは一大イベントでしたよ」とご住職。弟さんも「その時の写真があるんですけど…」と一生懸命探してくれたが、なかなか見つからない。「必ずありますから、見つけたらお送りしますよ」。何とご親切に、ありがたや…。

 力道山が亡くなった1963年…『第5回ワールドリーグ戦』の中盤戦。4月10日に佐世保、11日に長崎で最後の試合をしている。10日の佐世保大会は力道山&グレート東郷&遠藤vsパット・オコーナー&ジノ・マレラ&キラーX。セミで馬場はフレッド・アトキンスと師弟対決。猪木はヘイスタック・カルホーンに潰された。11日の長崎大会は力道山&グレート東郷&吉村道明vsパット・オコーナー&ボブ・エリス&フレッド・アトキンス。セミでキラー・コワルスキーと馬場は両者リングアウトだった。


※義父と力道山の連名の位牌。裏には俗名と没年、享年が記されている。

「これが力道山とお父さんの位牌です」。弟さんが棚の奥から出してくれた。普通ならば位牌は一人一人別々にするものなのに…そこには仲良く2人の名前が記してあった。そこに本当の親子以上の絆を感じた。そしてここでさらなる疑問が湧いた。住職の一つ下の弟さんが墓前で「それは力道山のお姉さんではないですかねえ」と言った墓に刻まれた女性の名前。力道山に実姉がいたのか…という疑問。そして隣にあった「小方家の墓」。「ここがずっと百田家の墓守をしているんです」と言うが、百田家とどんな関係があるのか、という疑問だ。

 それは次週、答えを出そう。






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