[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[5.22]ゴロー日記の衝撃

 13日付の読売新聞に気になった記事があった。
 それは「安土桃山時代末の1597年、日本人が奴隷としてメキシコに渡っていたことがわかった」という記事。「メキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認されたもので、日本人奴隷の実態を示す貴重な記録であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料として注目されている」とある。
 それによると、その審問記録で奴隷とされる日本人はガスパール・フェルナンデス、ミゲル、ベントゥーラの3人の男性で、日本名はないが、出生は「ハポン」と明記されていたようだ。ガスパールは豊後(現在の大分県)出身で、1585年、彼が8歳の時に長崎で日本人商人からポルトガル商人ペレスに奴隷として3年契約7ペソで売られた。当時、スペインで高級オリーブオイルが8ペソだったという。ガスパールはペレス宅で家事労働をさせられていたらしい。ベントゥーラの来歴は不明。
 ミゲルは、1594年にポルトガルの奴隷商人がスペイン領だったマニラで前述のペレスに売った。ペレスはマニラ在住時に隠れユダヤ教徒として逮捕され、1597年7月に次の異端審問のために調査したところ、マニラ在住だったペレス一家の中から3人の日本人の名前が出てきたというわけ。彼らは1599年に「我々は奴隷ではない」と当局に訴え、1604年に開放された…と、そう記事にある。
 当時、メキシコはヌエバ・エスパーニャと呼ばれるスペインの植民地だったのは知っていた。マニラとアカプルコにスペイン人による航路があったのも知っていた。豊臣秀吉は九州攻めをした直後の1587年に「日本人売買禁止令」を出している。実際に当時、日本人奴隷はマカオやマレー半島、インドのゴアなどに売られたという話は聞いたことがあるが、メキシコに渡ったというのは驚きだ。 
 千葉県の御宿とアカプルコが姉妹都市なの知っていますか。アカプルコと仙台も…。1609年にマニラを発し、アカプルコを目指したドン・ロドリゴ提督の乗った船が御宿の沖で遭難する。村民たちが遭難者を救助。生存者を江戸幕府が作らせた船で祖国へ還した。それが日墨友好の始まりとされている。このサン・フランシスコ号座礁事件は日本人奴隷3人が解放されて5年後の話である。それにしてもこの奴隷たちが日本人初の太平洋横断であり、メキシコを訪れた最初の日本人となるのだ。
 それまでは伊達政宗の親書を携えて太平洋を渡った支倉常長が最初の日本人だとされていた。支倉一行は1613年に石巻市の月の浦をサン・フアン・バウティスタ号で出港し、アカプルコにたどり着くのだが、そこから陸路でクエルナバカを経由してメキシコシティに入る。さらにベラクルスへ行き、別の船で大西洋を渡り、スペイン、ローマへ行く。
 クエルナバカのカテドラル(大聖堂)には豊臣秀吉のキリスト教徒弾圧(1597年)を描いた「二十六人聖人殉教図」が壁画として残っている。支倉らがクエルナバカでこの壁画を見たかどうかは定かでないが、その可能性はある。支倉の話の続きは次週詳しくすることにしよう。
 このカテドラルから2ブロック東にアレナ・イサベルがある。この会場では昔から毎週木曜日に定期戦があった(UWAは土曜)。それから362年後の1975年5月8日、このアレナ・イサベルでゴロー・タナカ(鶴見五郎)はドクトル・ワグナーの持つNWA世界ライトヘビー級王座に挑戦している。いわゆる幻の世界王者奪取(!?)のあった場所なのだ。今からちょうど38年前の出来事である。
 クエルナバカはメキシコシティの衛星都市で、モレロス州の州都。プエブラ、トルーカ、パチューカに比べると、ルチャの世界での大きな事件が起こったことがない、比較的地味な都市だ。でも、温暖で保養地して有名で、私も好きな街である。この街の存在を日本人ファンに知らしめたのは間違いなく支倉常長よりも鶴見であろうか。
 さて、鶴見五郎ゲストのトークショーがあと3日に迫った。昨日、茅ヶ崎に行って鶴見さんと軽く打ち合わせをした。というか、答え合わせだったかもしれない。例の「ゴロー日記」は確かに実在した。それは1971年の入門から82年1月31日までについてノート14冊にびっしり書かれた大作だった。今回は10〜14号を事前に借りすることができた。

 では、その中(7年間分)から特別に何日かを抜粋してみる。
「昭和49年10月18日(金)晴れ アレナ・メヒコ ×田中&ダンテス&TNTvsアニバル&ワグナー&ベラ〇
 前日が遠いフレスニージョからのバスに揺られて全然寝られなかった。小便が赤くてかなり疲れているようだ。試合内容は普通。リングシューズが届いた。カナダとイギリスの選手が多い。帰りにレストラン東京でメシを食って帰って寝た」
「昭和50年4月6日(日)晴れ グアダラハラ ×田中vsシエン・カラス〇
 だいぶ目が悪くなっていた。医者に行こか迷う。医者には明日行こうと思う。飛行機でグアダラハラへ。何とミル・マスカラスが乗って来た。大きい(背は小さいが)。昼は日本料理屋へ行ったが美味くなかった。(主人は)はもう店を閉めると言っていた。試合は良だったが、(せっかくのカベジェラ戦なのに)入場料が30ペソなのであまり金はよくないと思う。(コミッションの)医者に目を見せたら“試合をするな”と言われて迷う。“試合を中止する”ようなことを言っていた。裏口から帰った」
「昭和52年11月14日(月)晴れ 上田 〇田中vsボブ・ブーシェ× ケージ(金網)
 長い道中で疲れた。またケージマッチで頭にくる。血はあまり出なかった。夜は飲んで久しぶりの個室で寝た」
「昭和55年11月29日(土)晴れ オフ
 オフィスへ行き、ガイジン選手のことで電話をしたりした。会議にも出た。営業の連中は頭が硬い。いいたいことは言ったが、ちょっと皆、才覚がないようだ」
「昭和56年3月24日(火)晴れ 泉市 ×鶴見&コバルデ&エローデスvs浜口&寺西&隼人
 昼はゆっくりしてバスで会場に。ホテルからそれほど遠くなかった。社長の訓示があったが、マトが外れているように思う。言わんとしていることはわかるが…」
「昭和56年7月30日(木)晴れ 柏崎 ×鶴見vsエンフォーサー〇
 昼前のスクワットとプッシュアップをして食事。少し日光浴をして、出発前にゴムとシットアップをやる。会場まで歩いたがだいぶ距離があった。それよりもだいぶ暗いニュースが流れているので心配だ」
 こんな感じ…。今日はここまで。核心部分と本番のトークショーで…。

 こうした日々の他愛のない出来事、食事、練習、移動、たまに試合の出来不出来がさらっと書かれたものだが、濃いかといえば、決して中身が濃いわけじゃない。ただ、ちょっとしたメモ程度でも11年間毎日、何かを記録として残すっていうのも大変なことだと思う。もちろん日付と場所と自分の試合のカードと勝ち負けはちゃんと記されていた。これは大変に貴重な文献といっていい。
 今回のトークショーの第1部では74年8月〜75年6月のメキシコ修行時代について、第2部はミニ・オークション、第3部では凱旋帰国(75年11月)から国プロ崩壊(81年8月)までについて訊く予定です。
 国際プロレスのファンの人に限らず、プロレスファンならば長年、疑問に思われてきたことが、鶴見の口この日記で全て解き明かされる。驚くべきは、鶴見さんはこの日記を見ずして、ほとんどにことをほぼ正確に口にすることができることだ。恐るべき記憶力!それにこの日記を照合すればパーフェクト。幻のシリーズも、独立愚連隊のことも、羅臼周辺のことも…新発見の連続だ。
 それ以外にこの期間で知りたいことがあれば、どなたでもウエルカム。事前に調べてご質問いただければピンポイントでお答えできるはず。どうかマニアックな質問を本人にぶつけてみてください。私は残された3日で凱旋から崩壊まで6年間の2106日分の日記(字が汚い…)を解読し、新事実を発見しようと思っている。
 ということで、みなさん、土曜日に新宿でお待ちしています。






(C)辰巳出版