[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[6.13]この女性はどなたですか

 長崎県大村市の長安寺に上がり込んで力道山の取材を続ける。私は次なる疑問をご住職に投げた。ここにある「百田家之墓」には力道山の義父の己之吉さん、力道山本人の光浩さんの戒名と没年月日の隣に女性の名があった。「寒月院和光妙文大姉 昭和四十年十二月月廿日日 文子 四十四歳」。お墓に案内して下さった住職の一つ下の弟さんは「力道山のお姉さんじゃないですかね」と言われた。それならば力道山の姉は朝鮮から日本に来て、百田家とどう関わったのだろうか…。


※力道山のお墓には義父と本人、そして女性の名前が刻まれていた…。

「あの女性は?」と改めて問うと、ご住職はこうおっしゃった。「姉ではなくて、力道山の前妻ですよ。田中敬子さんの前の奥さんですよ」。私は大事な部分をスルーしていた。「百田文子」で44歳なら姉のように思えても仕方ないが、それが「文子→ふみ子」で「小沢ふみ子」さんというならば合点がいく。

 ふみ子さんは力道山の3番目の妻で、日本橋の芸者さんだった方。百田千恵子さん、義浩さん、光雄さんの実母は2番目の妻で、京都の芸妓さんだったようだ。ふみ子さんは自分と血の繋がりのない3人の子を大事に育てた献身的な方だったらしい。離婚した後に小沢姓に戻って、海老名市に住んでいたらしい。力道山からは毎月の生活費が支払われていたようで、厚木在住の東スポの櫻井康雄氏が日本プロレスからそのお金を受け取って届けたこともあったと聞く。

「ふみ子さんの葬儀はウチではやっていませんね。力道山同様に日蓮宗の戒名のようですし、こちらも分骨ですね。ウチは浄土宗ですから、戒名に浄とか誉が入ります」。日蓮宗の場合、男は日と居士、女は妙と大姉が付くようだ。「確かお父さんの己之吉さんのお墓に力道山さんを分骨するという話が来た時に、ふみ子さんもご一緒に入れたんだと思いますよ。そう持ち掛けてきたのは確か田中敬子さんで、その時、敬子さんもここに来られました」。それが墓石に刻まれた「昭和五十八年五月吉日建々」の日付なのだろう。それ以前に百田己之吉のお墓が亡くなった昭和25年にできて、昭和58年に力道山とふみ子さんを入れる時に、新しい墓石にしたのだ。それは己之吉さんの33回忌に合わせてのことだったと思われる。あの父子連名の位牌もその時に作り直されたものだろう。

 44歳というふみ子さんの年齢を見ると、姉さん女房であったことがわかる。また没年月日を見ると、力道山が亡くなって丸一年に後を追うようにこの世を去っていることがわかる。「寒月院和光…」と続く戒名には、ふみ子さんの寂しくも明るく振る舞う生き様が集約されているように思える。それにしても田中敬子さんは粋な計らいをしたなと思うのである。光雄さんら伸び盛りで多感期の3人の子どもたちを育てた感謝が込められているのではないかという想像できる。ふみ子さんは百田家の墓に入ったのだから、ここでは「小沢ふみ子」ではなく「百田ふみ子」として葬られているわけである。う〜ん、何か泣かせるねえ。今度、敬子さんにお会いしたら、その辺を詳しくお聞きしたいと思う。


※百田家の墓の隣には小方家という墓がある。この関係は…。

 さて、もう一つの疑問は、お墓の同区画にある「小方家の墓」。この家が「百田家の墓守をされている」と住職の一つ下の弟さんが墓前で言っていたが、果たしてこの家と力道山はどういう関係なのか。それが最後の疑問だった。墓誌を見ると、小方、坂元、平井の3人の女性の名だけがあり、建立も百田家と同じ年で、一緒に作られたもののようだ。住職にお聞きする。「確かに墓守はこちらの方たちがされています。もう大村には百田家の親戚は誰も残っていないんでね」と言って過去帳をひっくり返し出した。

 しばらくして「ああ、ここに載っています」とご住職。「ここにある小方〇〇さんは己之吉さんが養父となっているよ。おそらく、力道山と一緒に朝鮮から日本に来た方なんじゃないかな。それで可愛がって養女にしたのではないですかね」。ということは小方さんのご先祖と力道山は同胞で、百田家の養子と養女であったことになる。その方が力道山の最初の妻だったということも十分考えられる。養子縁組して百田姓になったと言われているが、誰とどう縁組されたかは何も伝わっていない。百田己之吉さんの「取り嫁、取り婿」か…それ以上のことは過去帳に何も記されていないみたいだ。謎は残ったが、いろんなことがわかって、大きな収穫だった。「ああ、13回忌の写真がみつかったら、お送りしますね」と住職の末弟。1時間半探してくれて、結局見つからなかった。私はお礼を述べて長安寺を去ることにした。

 陽は大村湾の奥に沈みかけていた。私は数件宿を探したが満室ばかり。やっと空室のホテルを見つけて、ガソリンを入れていると、スマホが鳴った。知らない番号だが大村の局番のようだ。さっき満室だったホテルからか…。

「もしもし、長安寺です」。さっきの住職の末弟の方だった。「まだ、大村におられますか。写真がみつかりました。良ければ複写しにいらっしゃいますか」との事。私は「行きます、行きます。10分で行きます!」と返す。


※義父の13回忌の法要は力道山が喪主となる。地元のファンも大勢集まる。

 そして再び長安寺を訪ねる。「清水さんが帰られた後に住職が見つけてくれました」と、見せていただいたのが上の写真。喪主は百田光浩で、先代の住職が経をあげる姿が映っていて、大勢の地元住民が見学に集まった一大イベントだった様子がよく表れた一枚だった。この時のお墓はかなり大きい。さすが義父の己之吉さんは地元の名士だったといえる。この時期にすでに力道山が本門寺とどう関わっていたかは定かではない。「もし自分に何かがあったら、ここの親父の墓に一緒に入りたい」と力道山はそう思っていたのかもしれない。それが義父の13回忌年から21年後に現実のものとなり、さらに36年経過して今日に至ったわけである。

 再度、お礼を述べてお寺を辞する。さっきお寺を出る前よりも晴れ晴れした気持ちになっていた。それにしても長安寺のみなさんには大変お世話になった。飛び込みの旅人の取材をよくぞ、ここまで親切にお聞き届けいただき感謝。このことは今度、本門寺の墓前でも報告したいと思う。法然と日蓮がバトルをしない程度に…。

 九州の旅はその翌々日に終わった。「また来よう」っと…。






(C)辰巳出版