[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[6.27]だからよく記憶すること

 米国デンバーからビッグバン・ベイダー、プエブラからは名マスク職人のアレハンドロ・ロドリゲスと“古代仮面王”エル・エヒプシオの他界…ショッキングな訃報が続く。

 ベイダーの成功は名前を与え、あの甲冑を作った新日本にある。レオン・ホワイトのままで来日していたら、とても成功したとは思えない。煙が噴き出すあの甲冑をリモコンでコントロールしていたのが、クロネコ(ブラック・キャット)。ベイダーが登場すると、いつもネコちゃんが舞台の裾でうろうろしていた。

 88年11月にベイダーはメキシコに初遠征(1週間)する。UWAのカルロス・マイネス代表は坂口征二を会長職に祭り上げてもベイダーを招聘したかったのだ。これ以外にも89年4月、89年11月、90年12月…ベイダーは計4度メキシコに遠征した。そのたびにネコちゃんが同行した。里帰りもあるが、大事なのはリモコン操作だった。ベイダーの襲来でどのアレナも超満員をマークする。84年4月のアンドレ以来の大物外国人(怪物)登場とあって、エル・トレオも毎開催超満員だった。それはUWAにとって最後の輝きだったといっていいだろう。甲冑も、マスクも、ヘッドギアも、脱ぎ捨てた先には自信の塊となったベイダーがいた。皇帝戦士に合掌…。

 アレハンドロとエヒプシオ(ホセ・ルイス・エルナンデス)の話は改めてどこかでしなくてはと思う。アレハンドロに最後に会ったのは昨年8月の『トリプレマニア25』の試合後。朝までレストランで語り合った。話好きなおじさんで、話の中身も私と波長が合った。プエブラの仕事場でも、仕事を放り出して、いろんな話をしていた。仕事よりも話好きだったように思えた。教えられることも、教えることもいろいろあった。彼は単なる職業としてマスクを作って来た職人ではなく、根本はルチャ・リブレが本当に大好きなマニアコだった。

 元気そうだったのに、この数ヵ月は癌で入退院を繰り返していたという。末期だったとは聞いていたが、レジェンド職人の死は残念でならない。今も机の側にあった彼の作ったマスクを手にして眺めている。実使用かどうかなど今となっては問題ではない。その一針一針にアレハンドロの職人魂とルチャ愛が込められている、それだけで十分じゃないか。さらば、アレハンドロ、合掌…。



 さて、今日は『Gスピリッツ』Vol.48の発売日。特集は『馬場夫妻と全日本プロレス』。だからという意味ではないが、先日、兵庫県明石市にある馬場夫妻が眠るお墓に行ってきた。2人揃って納骨された1週間後のことである。

 1999年1月にジャイアント馬場が亡くなった後も、元子さんは恵比寿の自宅に馬場さんの遺骨を持ったまま、お墓に入れようとしなかった。私も元子さんには「人は亡くなったら土へ帰るものです。馬場さんを土に帰してあげてほしい」と何度も頼んでいた。「明石にちゃんと墓所を買ってあるのよ。生前に馬場さんと見に行って、決めた場所です。でも、馬場さんを一人でそこに入れるのは、寒くて寂しいはず…」と言って、骨壺を離そうとしなかった。そこには執念のようなものすら感じた。

 一昨年、馬場さんの生家を見に、新潟県三条市へ行った時、近くのお寺に馬場さんのお姉さんなどの馬場家の墓をあることも知った。実家のお隣の方にお話を聞くと、今でも馬場家所縁の方がお墓参りに来ているとのこと。でも、元子さんはそこのお寺とそりが合わなかったとも聞く。三条市の市民栄誉賞にもなった馬場さんが分骨されることもなく、明石のお寺に入ったことに揉め事があったとも耳にした。力道山の大村のお墓ではないが、上手く収まってくれればいいのだが…。

 明石駅から徒歩15分…小高に丘の中腹に日蓮宗本松寺があった。こじんまりした静かな佇まいのお寺である。宮本武蔵が作庭した枯山水の庭園があることでも有名のようだ(拝見させてもらう)。その庭園の裏手に馬場夫妻のお墓があった。塔婆もまだ真新しい。裏には「平成十一年五月吉日 馬場元子建立」とある。平成11年=1999年。つまり馬場さんが亡くなった4ヵ月後にこの墓石を建てられたというわけか。

 決して大きくない。石のことは知らないけど、高そうな色と質感だ。この下にあの“巨大な二人”が眠っているのか…と思うと不思議な気がする。案内していただいたご住職の奥さんは「ずっと白い布を石に巻いていました。亡くなられる前の建てられたものには、そうしています」とおっしゃった。



※馬場正平さん&元子さんが眠るお墓。二人のお塔婆も真新しい。

「この隣にある伊藤家のお墓が元子さんのご実家の墓なんですよ。元子さんのお父さんやお姉さんが入られています。伊藤家は線路に向こう、海側にありますよ」。そういえば元子さんとの最後の会話の中に“姉の法事があるから明石に帰るの”というフレーズがあったなあ。85年に実父を失って墓前で号泣する元子さんを見た馬場さんが“この隣に我々の墓を作って一緒に入れば、ずっとお父さんといられるだろう”と言ったという逸話も残っている。

 ご住職の奥様からこんな情報もいただいた。「明石城の中の大手門広場には馬場さんが建てられた阪神・淡路大震災の鎮魂碑がありますよ。その側にも宮本武蔵が作った庭園が残っています」。さらにその奥、城内の西の隅にはかつて巨人軍がキャンプを張っていた明石球場が現存しているという。

 元子さんは1940年1月2日に明石の裕福な旧家の4人兄弟の末っ子として生まれ、父は読売巨人軍の後援会の会長だった。ここで15歳の少女は馬場投手と知り合い、手紙での遠距離恋愛が始まる。神戸の短大を卒業後に留学して、ロスの旅行社に勤め、遠征して来た馬場と暮らした。

「あの頃は楽しかったわ。(ミスター・)モトさんの車で、サンバナディーノやサンディエゴとかに一緒によくドライブしたの。あれはベーカーズフィールドへ行く時だったかしら、車がパンクしちゃってね。馬場さもんもモトさんもタイヤを交換したことがないのよ。だから、私がジャッキを出して交換したら、2人は“元子はすごい。男みたいだ”って喜んでいたわね(笑)」。そんなロス時代の想い出話を電話で延々と話してくれた。

“いろいろお世話になりました”。墓前でしっかり手を合わせて、武蔵の庭園を見せていただき、お寺を辞する。そして明石城内の碑を見に行く。あった、あった。馬場さんの背丈もあろう立派な碑があった。そこには“これは”という詩が刻まれていた。

『これはいつかあったこと。これはいつかあること。だからよく記憶すること。だから繰り返して記憶すること。このさき わたしたちがいきのびるために』と。


※明石城内にある全日本プロレス寄贈の阪神・淡路大震災の記憶碑。

 さらにここには1995年の大震災での明石の被害が刻まれていた。「死者26人、負傷者1745人、家屋全壊2941戸、半壊一部破損28043戸、水道断水7800戸、停電10万戸、ガス中断24200戸、全学校園69施設破損、道路417ヵ所普通。その他、溜池、公園、鉄道、港湾、商工施設が大きな被害を受けた。一時、3369人の避難者が23ヵ所の施設に入所、856戸の仮設住宅で長期仮住まいを強いられる。兵庫県立明石公園も城郭の石垣が各所で崩壊、櫓二棟が大きく破損、明石市立天文科学館も塔内部が全壊、機材破損、明石市立市民会館も床、壁が崩れて長期休館した」。これはアントニオ猪木が引退試合をした平成10年4月に建立された碑で、上部には一羽の鳩が留まっているのが印象的だ。元子さんのセンスのような気がするが…。

 そこから近い所に明石球場があった。2011年7月より「明石トローカ球場」と呼ばれているらしいが、1932年3月竣工だから古い。巨人はここで戦前から春季キャンプを張り、戦後も1949年から9年間キャンプ地にしている。川上哲治、長嶋茂雄ら名スターたちがここで汗を流したかと思うと、感慨深いものがある。

 大阪と姫路の中間にあって、見落とされがちな明石市。大阪から明石まで新快速で37分(近い!)。この「日本標準時」の町は、日本プロレス界を席巻した馬場夫婦永眠の地となった。二人の出会いがこの球場だから、私と逆コース。明石駅→明石球場→記念碑→本松寺の順路で見学するとよい。そんなファンが増えてくれると嬉しい。






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