[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[8.01]2本作られたPWFベルト再検証

 先週のPWFヘビー級の純金ベルトの話は好評だったようで、反響も大きかった。それはそれで喜ばしいことなのだが、このコラムはいつも慌てて書いているのと、歳を取ったせいか、書き漏らしが出る。それに改めて調べずに昔聞きかじったことそのまま書いて、あとで“しまった!”となることもよくある。自分が見聞きしてきた記憶だけに頼るのはもう危険なのかな。一番、怖いのは、一度インプットしたものを信じ込むこと、それと思い違いだろう。PWFベルトの件でも多少それがあった。なので、出来る範囲で改めて調べ直してみることにした。


※もう一度、PWFの純金ベルトをご覧あれ。鎖が切れていた。

 最初、私と小佐野氏がパーティー会場の遠目からベルトを眺めて「レプレカ(3代目)?」と思ったのは中央プレートと各サイドプレートを結ぶチェーンが切れていたからだ。でも、近くで見ると「ゴールドの本物だ!(2代目)」と確認できた(※力道山ベルトを初代PWFとする)。ここで疑問が出た。1週間しか使用していないと聞いたのになぜチェーンが切れるか、ということ。確かにあれから40数年の歳月が経過している。保管状況がどうだったのか、定かではないが「そんな簡単に鎖が切れるの?」という疑問だ。

 力道山ベルトをモデルとした“全日本オリジナル”の新PWFベルトは1974年1月までに2本作られたと見るべきだろう。1本が純金ベルトの2代目、もう1本が金メッキの3代目。この3代目は万一に備えてスペアとして作られたと考えられる。過去にWWA、インター・タッグ、UNなどの新ベルトや新設王座のベルトを作る時がそうであったように…一度に複数本を作らせたのであろう。いかにも日本人らしい…。しかし、実はそれが後にさまざまな混乱を招くのだ。

 王者・馬場は純金のほうを使い、スペアは全日本ブッカーのドリー・ファンク・ジュニアに預けた。それだけドリーを信頼していたから渡したのだろう。ところが感覚のズレか、ドリーはフロリダ地区でインターナショナル王座と称して無断でそれを使い回していたのだ。その時代には、ゴングの海外ネットは半端でなかった。どの州で何をやっていても網にかかる。それより数年前ならばわからずに済んだことも、簡単にバレてしまうのだ。

※PWF予備ベルトはフロリダへ。76年にラリー・レーンらが締めていた。

 その事実を知った馬場は怒ってドリーに返却を要求。事実が発覚したのは76年だが、ドリーは76年に来日していないから、直接、本人が返却したとするならば77年の年末になる。つまり少なくともこの間も、馬場は純金ベルトのまま防衛を続けていたことになる(ただしスペアをもう1本作ってない限り…)。特に防衛数が多いから、そこでチェーンが切れても不思議ではない。

 では、どこから2代目と3代目の代替わりがあったのか。馬場の全防衛戦をチェックできていないので正確にはわからないが、少なくとも78年6月1日の秋田でキラー・トーア・カマタに敗れて防衛記録が38で止まった時点では3代目にスイッチしている。それがおそらくドリーから返却されたものなのであろう。

 純金の2代目とフロリダを旅した3代目ベルトのサイドプレートを見てみよう。そこのバックドロップ像(6つとも同じ)はどちらも外側を向いて投げている。しかし、カマタのベルトのバックドロップ像は内側を向いているのだ。返却されたベルトがかなり傷んでいたのか、あるいは“お清め”の意味か、ベルト革の張り替え作業が行われたからだと思われる。フロリダへ行った3代目ベルトの留め金の形がどうだったのか定かではないが、カマタベルトのこの部分は確かに純金2代目と作りが違う。さらにベルト裏は白地に、赤い革のフチドリも丸みを帯びて細くなった。
 
 ともあれ、このカマタか、それより少し前の時点で純金ベルトはお蔵入りしたことになる。98年に増刊『検証チャンピオンベルトの謎』を出した時に、純金ベルトとレプリカと2本あると知りながら全日本への手前、詳細を書けなかったが、その時に聞いた“1週間だけのベルト”という話は明らかに間違いだったようだ(カマタが信用されていなかったこともわかった)。ちなみに82年のレイス政権の頃にチェーンは太くなり、86年の長州時代にはバックドロップ像は再び外側を向くが、端のだけは内向きになった。つまりその頃に修繕や張り替えがあっただろうことが推察できる。

 張り替えといえば、73年1月、完成時の純金ベルトの裏地は肌色だったが、NWAを初戴冠した75年末の記念撮影時は黒(現在も黒)。たった2年弱で張り替える必要があったのか? まだ解けない謎がいろいろある(まあ、全体的に先週よりも少し進展したかな…)。


※カマタが78年6月に馬場から奪った時には3代目ベルトになっていた。

 こういう話を竹内さんとよくしていた。2人だけで月刊(本誌)と大判のゴングを出し続けていた80年代半ば、あるいは編集企画室で『検証チャンピオンベルトの謎』や『空中戦3』、『ザ・レスラー・ベスト1000』、『伝説の死』、『プロレス・オールスターSUPERカタログ』といったいろんな増刊を次々作っていた90年代後半…仕事中によくこうしたマニアックな話を延々としたものである。

 そこから「いいね、それ」と次の企画や増刊のプランが生まれた。以前はみんなで編集会議をしていたが、2人だと日々の雑談が会議みたいなものだった。ゴングが週刊になった時、私を週刊スタッフに入れずに、私だけを連れて本社近くの製本屋の2階の薄暗い一室を間借りして月刊を出し続けた。竹内さんは私が週刊で記者をするよりも、マニアを育てる本づくりが向いていることを見抜いたからであろう。

 あの頃の竹さんの口癖は「たとえ時代に逆行していようが、週刊は嫌だなあ」だった。私も横で頷いていた。拝命から30年経った今でも私は「元週刊ゴングの編集長の…」と紹介されるが、それは世間へ向けてのこと。私自身、今、振り返ってみて重要だったのはそこではない(ましてやライバルもいない!)。最も充実していたのは綴じ込み付録を作ったり、ガイジン引き抜き戦争を追っていた月刊時代、そしてあの増刊を出し続けていた時代なのだ。そもそも社員を取らないはずのゴングに竹内さんが自ら私をスカウトしたのは、私に同じマニアックな匂いを嗅ぎ取ったからだろうと思う。その嗅覚が私の人生を変えてくれたわけだから、感謝以外に言葉はない。

 ということで、次なるトークショー(8月26日)は、僭越ながら私がゴング代表として50周年を語らせてもらう。なぜ、ゴングはあの時代にマニアや少年たちの心を掴めたのか。昭和の黄金プロレス期にゴングはどんな仕掛けをしたのか。竹内イズムの編集方針とは何か。そして他誌をどう出し抜いて差をつけたのか。ゴングの隆盛と暗躍の歴史…プロレス&出版業界の裏側が解き明かしてみたい。

 あの濃密な日々と熱き思いを亡き竹内さんはもちろんのこと、とびっきり可愛がってくれた初代編集長の小柳幸郎さん、そしてリハビリ中のウォーリー山口くんら、こうした上官や戦友たちに届けたいと思う。8・26…ゴングマニアよ、集まれ!

『ビバ・ラ・ルチャVol. 37  嗚呼、愛しのゴング創刊50周年秘話 〜そして誰もいなくなった〜』
■日時 2018年8月26日(日) 開場12:30 開始13:00
■会場 新宿・ネイキッドロフト(東京都新宿区百人町1−5−1 百人町ビル1F)
■チケット 3000円(当日3500円)※飲食費別
■出演   “ドクトル・ルチャ”清水 勉
■司会進行 パニコXX
■電話予約 ネイキッドロフト03−3205−1556(16:30〜24:00)






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