[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[10.18]黒猫の血、残る

 最強コレクターのクリスチャン・シメット弁護士の妻アルマに関して先週書き足りなかった血縁を追記する。彼女の父がビジャノ1号で、祖父がレイ・メンドーサであることはすでに触れた。また、母方はルチャマスコミの先駆者ホセ・ルイス・バレロ・メレ(ボクス・イ・ルチャ誌編集長、ルチャ・リブレ誌編集長)であることも先週書いた。つまりアルマは“メキシコの力道山”の孫であり、“メキシコの田鶴浜弘”の孫であるわけで、ルチャドールとルチャマスコミから最強の血を引き継いだことになる。

 さて、ホセ・ルイス・バレロと最初の妻の間には4人の子供がいた。マルマの母アルマ・デリアはその長女にあたる。次女のマルタの子が60年代のルチャドール、ラウル・ゲレーロで、彼は1968年2月25日、エル・コルティホでの王座決定戦でラウル・ロハスを破ってナショナル・ライト級王座を奪取した軽量級の名ルードだ。今回、クリスチャンが日本に持参して「闘道館」に展示したナショナル・ライト級の初代チャンピオンベルト(1937〜)にはラウル・ロハスとラウル・ゲレーロの2人のラウルのプレートが並んで貼られていた。


※ナショナル・ライト級ベルトにあるラウル・ロハスとラウル・ゲレーロのプレート。

 ちなみに69年にラウル・ゲレーロを破ったのがエストレージャ・ブランカ。あのベルトはこのブランカから70年10月にロドルフォ・ルイス(アベルノの父)、71年8月に再びエストレージャ・ブランカに移る。このエストレージャ・ブランカの2度目の戴冠あたりで2代目ベルト(現在はアレナ・メヒコ所蔵)にフルモデルチェンジされている。脱線したが、アルマの祖父ホセ・ルイス・バレロの後妻には3人の子供がいた。その次男エドガールは88年10月21日、モンテレイでプロモーターのカルロス・エリソンドと組んでロス・ビジャノスvsロス・ブラソスのマスカラ戦を企画したという。それにしてもルチャのファミリーって、どこまでどう繋がるのって、感じだね。

 そんな様々なルチャ関係者の血を引くアルマにもお決まりの「歴代ルチャドール・ベスト5は誰か」を聞いてみた。
「エル・サント、ブルー・デモン、ブラック・シャドー、レイ・メンドーサ…」
 アルマは、ここまでの4人を迷わず勢いよくチョイスした。しばらく考えて、「それと、もう一人はフィッシュマンかな。う〜ん、ペロ・アグアヨと同等なんだけど…」と漏らす。アグアヨは次点。このベスト5の選択に私も“なるほど”と納得するものを感じた。さすが名牝! 血統馬ならでは見事な回答だと思った。

 さて、ルチャファミリーといえば、メンドーサ&ビジャノス一家と対抗するスギ・シト一家がある。その中で最も深く日本と関わったのがスギ・シトの甥のクロネコ(ビクトル・マヌエル・マル。1954年10月17日生まれ、2006年1月28日死去。日本のリングネームはブラック・キャット)。昨日が彼の61歳の誕生日だった。

 クロネコの伯父スギ・シト(フランシスコ・マヌエル・マル・エルナンデス。1926年12月6日生まれ、2000年5月4日死去)は元NWA世界ミドル級チャンピオン(50年のMVP。50、51、52、54年ベストバウト)で、リト・ロメロと組んで54年5月にテキサス・タッグ王座を、アラバマではミツ・シトと組んで69年2月にガルフコースト・タッグ王座を、カルガリーでは71年10月にチャン・リーと、72年9月にトーア・カマタと組んでインターナショナル・タッグ王座を2度獲得するなど、北米マットでも活躍した名選手だ。

 その弟ウロキ・シト(フアン・マヌエル・マル・エルナンデス。1928年4月6日生まれ、2014年9月19日死去)。ウロキの下の弟にはパンチート・ロブレス、マヌエル・ロブレス(パニコの父、スカンダロの祖父)がいたが、どちらも既に亡くなっている。

 クロネコの父ウロキ・シトはグアナファト州レオンのフアスト・シエラ通りで生まれた。父マカリオ・マル・ウォンは中国移民の二世で警察官をしていたようだ。母のフアニータ・エルナンデスはレオン出身のメキシカン。ウロキはその次男として生まれ、少年時代はバスケットボールとボクシングに熱中し、兄スギ・シトの影響でルチャドールを目指す。マエストロはグリセリオ・デ・ラ・ロサ、ホルヘ・ミランダ。デビューは1950年のグアナファト州セラーヤ。対戦相手はトニー・レイナだった。53年にメキシコシティに出た時の体重は60キロ台しかなかった。アレナ・メヒコ初登場では兄とミシマ・オオタと東洋トリオでカベルナリオ・ガリンド&ファントマス&ベルドゥーゴと対戦している。以後、大ブレイク中の兄とのタッグで売り出す。


※クロネコの父ウロキ・シトの特集記事で紹介されたマヌエル・マル・ファミリー。

 ビクトル(クロネコ)はウロキがメキシコシティに出て4年後に生まれた長男坊だった。ウロキは57年にルードに転身していている。67年8月11日にグアダラハラでアルベルト・ムニョスの持つナショナル・ウェルター級王座に、75年4月5日にはダルド・アギラールのナショナル・ライト級王座に挑戦しているが、兄のようにメジャータイトルの獲得はなかったし、華々しい戦歴も無かった。だが、その闘争心はしっかり息子に受け継がれた。

 以前に触れたことがあるかもしれないけど、79年に私がメキシコに行った時にオフだった佐山さんを連れて敵団体UWAのヌエバ・アレナ・アパトラコを観戦した。その時にネグロ・ナバーロと組んで試合していたのがクロネコだった(相手はブラックマン&エル・インパクト)。デビュー2年目のクロネコはリングサイドで写真を撮っていた東洋人の私を不思議そうな目でチラ見していた。私も不思議な気分で東洋フェイスの彼の目線を意識した。この時は控室へ行ってないから話していない。もちろん、佐山さんもこの時がクロネコ初目撃。帰りのタクシーで「あの日本人みたいなの誰だろう?」と佐山さんは首を捻っていた。まさか2年後、この2人が川崎(81年5月8日)で戦ったり、新日本の同志として仲良くなろうとは想像もしなかった。

 今年8月にメキシコシティの「ドクトル・ルチャ考古学研究室」(クリスチャンの弁護士事務所)で大量の資料を分析していた時、ウロキ・シトやクロネコのものがいろいろ出てきた。気晴らしに「そうだ、幸枝夫人に送ろう」と、何点かの写真をメッセンジャーで日本に送る。するとデビュー1年目23歳の若き日の写真を見た幸枝さんは「びっくりするくらい息子と娘にそっくりです」と返事が来た。そしてクロと息子さんと娘さんのスナップ写真を送り返してもらう。うっ、確かに似ている! 血は争えないなあ。


※1978年4月『ボクス・イ・ルチャ』1330号に掲載された若き日のクロネコ。

 メキシコ遠征中の藤波さんが付き人をしてくれたクロネコを気に入って日本に呼び寄せて新日本の一員にしたという。が、それを許可したフランシスコ・フローレスの器と、長男を見知らぬ東洋の異国に送り出した父ウロキ・シトの気持ち、この英断があったからこそクロネコは日本人選手となり、結婚して子供を授かり、そして骨を埋めるに至ったのである。享年53歳とはあまりに若すぎるけど、あの時の彼の人生の決断もまた決して間違ったものではなかった。そしてスギ・シト(マヌエル・マル)一家の血が日本に、東洋に戻って、残ったということも重要なことだと思う。クロ、いつまでも忘れないぞ!







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