[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[11.22]冷血仮面への冷たい視線

 ミック博士から『昭和プロレス・マガジン』44号が送られてきた。相変わらず独自の視点で細かい検証作業をすると感心させられる。本職の合間に、途切れなく、よくもまあ、これだけの原稿の量をまとめて編集するなあ、とも感心。ご苦労なことです。

 さて、今回の特集は『新日本ワールド大リーグ戦+アジア・リーグ戦』とあった。『ワールド大リーグ戦』は、力道山が1959年に起死回生のビッグイベントとして放った企画。その名称と優勝トロフィーを、そのまま新日本が74年の第1回大会に使用した。怒った馬場は地球がデザインされた日本プロレス史上最も有名なトロフィーを新日本から取り上げたが、その後、実使用することはなかった。あの優勝トロフィーは少年時代の私にとって憧れのお宝。後年、馬場家にお邪魔した時、これが無造作に置いてあったのを見て、思わず「おおっ」と声を上げ、嬉しくてペタペタ触ったものである。あれこそ力道山、豊登、馬場、猪木が手にした日本マット唯一無二の至宝だ。

 日本プロレスの『ワールド大リーグ戦』は、世界からどんな強豪が来るのか、毎年楽しみにしていた。しかし、新日本のそれは蓋を開ければ、これしか来ないのかという悲惨なメンバー(第1回=キラー・カール・クラップ、スタン・スタージャック、モンゴルス他)。今から思うと、それも味があったということか…。そんな中、今回の『昭和プロレス・マガジン』で表紙にサングレ・フリアーを持って来たのは拍手ものだった(雰囲気のある怪しくていい写真だ)。彼は第2回大会に来たメキシコ代表として来日したマスクマン。折角だからこのルチャドールについて検証してみることにする。


※第2回ワールド大リーグ戦の開幕戦。スーパー・デストロイヤーら2選手が4日遅れでガイジンは4人のみ。

 日本での公式名はフリアーだが、フリーア(Fria)と発音する方が正しいかも(私が文字にするならフリアかな)。当時、一部では「熱血仮面」とか紹介されていたようだが、それは大間違い。サングレは「血」、Friaは「冷たい」「寒い」の意味だから「冷血仮面」なのだ(ゴングは冷血仮面)。だからマスクの色がブルーなのである。

 開幕の蔵前のタッグで勝ったものの、公式戦を含む全てシングルでフリアは負けまくる。日本人相手に勝てたのは若手の藤波辰巳、リトル浜田、荒川真、藤原喜明のみ。星野、木戸、永源、柴田、小鉄あたりの中堅には勝てない。公式戦ではファザール・シンにだけフォール勝ちし、シリーズ中の練習で左肘を痛めた木戸に不戦勝した2勝のみ。猪木、坂口、大木、S小林、クラップ(嗚呼、また来た…)ら上位選手たちには全敗(13敗)している。それは冷たい目で見られてもしかたない戦績だった。

 では、フリアとはどんな選手だったのか。そして当時、メジャー1団体しかなかった時代で、EMLLに所属していなかった彼が、なぜ新日本に来たのか…そこに私はずっと疑問を抱いていた。

 本名はホセ・マヌエル・ローマン・サカリアス。ベジョ・ローマンの名でデビューして、ヤンガを経てサングレ・フリアに変身したのは73年になってから。この名とコスチュームを与え、売り出したのは『ルチャ・リブレ』誌のオーナー、バレンテ・ペレス。彼はマスカラスを筆頭に、ティニエブラス、マノ・ネグラ、TNT(アナコンダ)、ドス・カラス、カネック、トニー・サラサール、エル・リンセ、ベビー・フェース、チカノ・パワー、アス・チャロ、エル・ガジョ・タパド、シエン・カラス、エル・ブロンカスらをスカウトして世に作り出した人物。ボディビル雑誌『ムスクル・パワー』のオーナーでもあるペレス氏は彼がボディビルダー時代から目をつけていた選手らしい。だからボディだけは逆三角形で美しい。

 マスクマン、エル・アルコンの正体をバラした事件でEMLLに絶縁されたペレス氏は73年から自分の手駒を使ってエル・トレオの闘鶏場や地方で興行を打ち始める。サングレ・フリアもペレス部屋の関取でパワー重視のルードだったようだ。この時期、EMLLと少し距離を置き出したベテランのウラカン・ラミレス、ハム・リーもペレス氏と親交の深いエストレージャだ。ここまで書けば「なるほど…」と気づく方もいるはず。フリアより前に新日本に来たハム・リー(エル・サント)、アナコンダ、ティニエブラス、ヒューラカン・ラミレスらは、ペレス氏の友人か手駒ということになる。翌年に新日本に来るシエン・カラスもそう。


※『ルチャ・リブレ』誌633号。マスクを取られたサングレ・フリアが表紙に。

 周知のようにカール・ゴッチとハム・リーはハワイで知り合って意気投合した親友である。メキシカン招聘に関しては、ゴッチからメキシコのハム・リーに連絡が行き、ペレス氏に相談して人選された可能性がある。ペレス氏はフロリダに別荘があって晩年はそこで暮らした。フロリダでゴッチと直接親交があったというのは飛躍しすぎだろうか。

「あの頃のメキシカンはワシが呼んだ」と言っていたという柴田勝久さん。でも、新日本に来たメキシカンたちは、柴田さんが試合したEMLL所属の選手ではない。たぶん柴田さんは新日本側の窓口だったんだろう。新日本からのリクエストは「大きい選手をお願いします」だと思う。だからアナコンダやティニエブラスらフリーの巨漢選手が来たのだ。次に「マスカラスみたいな技巧派を」のリクエストにはラミレスが来て、「小さすぎたから、次は大きいのを」でフリアになったのだろう。

 そんな大きくていい選手はメキシコ国内にそうはいない。出来るヘビー級選手はアメリカに出て行ってしまうからだ。ペレス部屋ならば、若き日のカネックやドス・カラスだって、その時点で新日本に来ていたかも(ドスはマスカラスが行かせないか)。

 サングレ・フリアは『ルチャ・リブレ』誌上でやたらと扱われたけど、ほとんどのメキシコのファンが実際に試合を観たことのない。いわゆるインディーの選手だからだ。つまりペレス親方のプッシュがなければ間違いなく来日が実現しなかった子飼いの力士(選手)だったのだ。同誌のインタビュー記事では「日本以外に韓国、コロンビア、ベネズエラ、グアテマラ、エル・サルバドル、カナダで試合した」と答えているジャーニーマンである(ワールドリーグ後の韓国遠征に帯同したのかは不明。発表されなかったけど、恐らく同行していたのでは!?)。

 サングレ・フリアのその後は…。新日本遠征の翌年(75年10月11日)、ペレス氏主催のプラサ・デ・トロス・メヒコ大会でチカノ・パワーと組んで8チーム参加の敗者マスク剥ぎトーナメントに出場したフリアは、最後にガジョ・タパド&アス・チャロに敗れてマスクを取られた。「雑誌でよく見るけど、実際に初めて観る2人」は冷たいファンの視線の中で素顔となる。


※新日本来日時の貴重なマスク。サングレ・フリアだったのは2年間だから余計に貴重。

 その後、彼はUWAに移籍して“骸骨兄弟”ロス・エルマノス・ムエルテの1号に変身。再びマスクを被る。しかし、またも敗者マスク剥ぎトーナメントにエントリーし、最終試合でラヨ・デ・ハリスコ&ウラカン・ラミレスに敗れてマスクを取られる(78年9月17日=パラシオ)。このトーナメントには他にアニバル&アルコン78、ドス・カラス&ウルトラマン、ソラール&エル・インパクト、カネック&アス・チャロ、アメリカ・サルバッヘ&アストロ・レイ、ビジャノ1&2号が出場。中にはかつてペレス親方がスカウトした人材が出世して混じっていた。3度目の幕下落ち(素顔)になった彼はバルバロ・ローマンと改名するも、メジャー団体には入れず、80年代半ばに廃業(フェードアウト)した。

 ひょんなことで日本に行く機会を得たフリアにとって、74年春は忘れられぬ想い出になったはずだ。そしてその時期が彼のルチャドール人生のピークだったようだ。クリスチャン・シメット弁護士曰く、彼はメキシコ州に住んでいるが、現在は病床にあるらしい。元気になって日本の想い出でも語ってくれたら、涙ものだよね…。

 まあ、たまにはこういう二流ルチャドールにスポットを当てるのもいい。それも『ルチャ・リブレ』誌以来、42年ぶりに『昭和プロレス・マガジン』が彼を表紙にしてくれたからこそ触れることが出来たネタだけど。ペレス親方も表紙を見て草葉の陰で喜んでいることだろう。みんなさん、買って読んでみてください。マニアックな本だよ。






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