[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[07.18]男たちが惚れた男


※1940年代〜60年代の技写真をバックにジャーベ実演。

 14日の闘道館でのジャーベ講座はおかげさまで、何とか形が付いたかなと。なんせ、何もかもが初めての試み…一部には「色物」と誤解する人もいたようだが、ジャーベの奥深さ、プロレス技そのものをアカデミックに伝えるイベントに仕上げられたのではと自負している。

 太平洋戦争以前に、メキシコにこういう技術がすでにあったこと、それがどんなに緻密かつ痛い技なのかも伝えられたかと…。そして何よりも生徒の白川さんの真剣さが伝わったと思う。来ていただいたお客さんの熱い声援もマット上に伝わってきたし、最後は一体感のある雰囲気も作り上げられた。正直、今回のイベントは現役選手たちに観てもらいたい内容だった。そこには今の選手たちに伝えたい、残したいものがたくさん転がっていたと思うから…である。

 さて、「海の日」は海に行かず、流智美氏の『超獣ブルーザー・ブロディ 没後30年記念イベント』(闘道館)にゲストとして小佐野景浩氏と一緒に出席。それは9月9日に同所で行われる『激論!日本人レスラー史上ベスト20』のPRのためだった。しかし、どさくさで、その前の8月26日(日)にある私のトークイベント『嗚呼、愛しのゴング創刊50周年秘話』(新宿ネイキッドロフト)の宣伝もしておいた。私のスタンスとしては地元インディアナポリスの興行も大事だけど、シカゴのアンフィシアターも大事だぞ…というディック・ザ・ブルーザーみたいなものかな。ルチャファンへの例えならば、地元モンテレイの自主興行も大事だけど、パラシオのメインも張りますよ、というレネ・グアハルドの心境か(例えが古すぎるか…)。要は「どっちも来てね」ということ。どちちらのイベントも普段では聞けないであろう貴重な話をお聞かせましょう。


※1971年のアメリカス・タッグ王者時代のマサさん。

 このブロディのイベント終了直後に「マサ斎藤死去」の報が入る。「ええっ」と我が耳を疑る。マサさんの思い出はいろいろあるのだが、ブロディのイベントの直後だったから、ふと頭をよぎったのがあの巌流島決戦。なぜかは以下の通り。

 1987年10月4日、ゴングは史上最大の取材陣を巌流島に投入し、私がその指揮を執った。猫の手の借りたい巌流島取材だったが、全日本担当の小佐野記者とウォーリー山口は東京に居残る。実はその裏でブロディの全日本プロレスUターンが水面下で進行していたからだ。そして彼らは巌流島と同日の伊勢崎大会での2年7ヵ月ぶりの超獣復帰劇を追った。普通ならブロディの全日本カムバックはトップを張れるネタだし、もっとドラマチックに扱えたはずだが、さすがに巌流島には完敗だった。いや、それよりもマサさんの凄みが超獣を凌いだ激動の1日だったと思う。

 例によってキム・ドクから連絡があった。「マサさん、亡くなったんだって!」。ブロディイベントの打ち上げの最中だった(失礼ながらハイエナみたいだなあ。でも、凄い嗅覚だ…)。誰か亡くなると、すぐ連絡してくる。「俺は斎藤さんに世話になったんだよ」と一方的に話が始まる。

「俺が72年の暮れにロスへ行ったじゃん。73年に正月からロスでキム・ドクとして試合を始めて、1月末(27日)にサンフランシスコのロイ・シャイアに呼ばれて新春恒例のバトルロイヤルに出たわけ。その頃、斎藤さんはキンジ渋谷さんと組んで売れっ子だったよ。レイ・スティーブンスやパット・パターソンに会ったのもその時。斎藤さんに“俺んちでメシを食って行きなよ”って呼ばれてさ、日本人の奥さんが日本食を出してくれた。2月になったら斎藤さんがロス地区に来てね。キンジ渋谷さんがブッカーのミスター・モトさんと仲良かったからさ、あの2人は南北のカリフォルニアのテリトリーを行き来してたんだよ」

 記録を調べると、キム・ドクは2月23日のロスでミスター・サイトウと初タッグを組んでいる。相手はリッパー・コリンズ&ゴードン・ネルソン。「そう、その頃、何回か組んでるよ。俺はベビーで、斎藤さんはヒールのはずなのに、日韓コンビという括りなんだろうな。移動も一緒で、まだアメリカに慣れていない俺にいろんなことを教えてくれて面倒をみてくれたなあ」。さらに記録を紐解くと、4月30日のサンバナディーノでキム・ドクはマサさんと対戦している。ドクはトニー・ロコと組んで、マサさんはジャン・リバスと組んでのタッグマッチだった。


※1973年2月23日に斎藤&ドクがロスで初タッグ。

「それは憶えてないなあ。マサさんとだったら、きっといい試合をしたんじゃないかな。斎藤さんは5月頃までロスに出入りしていたはずだよ。それで俺がオクラホマへ行くことになって別れた。俺も斎藤さんもアメリカは長いけど、それからずっと一緒になってないんだ。フロリダでも、ミネアポリス(AWA)でも、ニューヨーク(WWWF)でも、入れ違いだったよ。ロスの時は俺もまだ青かったけど、成熟してからAWAとかで組みたかったね。あの人は本当に試合が巧かったよ。俺らが組めばいいチームになったと思うよ」。

 それが現実のものになったのは79年8月26日の日本武道館。あの『プロレス夢のオールスター戦』だった。マサ斎藤&高千穂明久&タイガー戸口vsミル・マスカラス&ジャンボ鶴田&藤波辰巳。世間は鶴田&藤波の初タッグにマスカラスが加わったドリームチームに注目が集まったが、米国で揉まれた苦労人トリオも実はドリームチームだったのだ。

 斎藤&高千穂は前年夏のフロリダUSタッグ王座に3度も就いた名チームだが、日本で組むのは初めて。それどころか3人全員が日本では初タッグだった。「あれは斎藤さんとの最高の思い出だよ。高千穂さんとも組めたし。あれで鶴田&藤波&マスカラスと武道館で出来たんだからなあ。でも、あれが斎藤さんとの最後の接点なんだよ。俺が新日本へ行った後も、なぜか擦れ違いでね。その後も長州たちと全日本へ行っちゃっただろ。その後もマサさんと絡むことはなかったよ」。

 最後にこんな裏話を聞かせてくれた。「俺もメキシコじゃ、MASAって呼ばれていたの知っている? 選手たちは俺をそう呼んでいたよ。そうじゃなくて、俺がルイジアナに転戦した時さ、プロモーターをやっていたビル・ワットに“お前はマサ・サイトーか!?”って言われたよ。“ノー、俺はキム・ドクだ”って言い返したわけ。“お前ら似ているな”って。確かにその頃は頭がモジャモジャしていたよ(笑)。2人とも天然パーマだし。アメリカ人に似てると言われたならば、余計、何処かのテリトリーでタッグを組みたかったくなったよ。日本でも“マサ斎藤さんですか”って間違われることが何回もあったな(笑)。それだけあの人が有名だったってことだし、間違われたからって、嫌な気持ちはしなかったよ。あの斎藤さんにだからさ。俺はあの人の生き様には惚れていたよ。それで本当に面倒見のいい人。だからいろんな人に慕われるんだ。残念な人を亡くしたよ」といんみり…。そう言い終わると、一方的に電話が切れた…(まあ、いい)。いくら擦れ違いが多くても、異国で苦労した者だからこそ感じるものがそこにあるのだろう。そういうリスペクトはマサさんの周囲にはいっぱいあるはずだ。

 男たちが慕い、男たちが惚れる、男の中の男…マサさんに合掌。






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