[水]ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

[7.25]純金ベルト御開帳!

 18日はザ・キャピトルホテル東急での『馬場元子さん お別れ会』に出席した。坂口さん、天龍さん、小鹿さん、カブキさん、百田さん、小橋さん、馳さん、渕さん、川田さん、秋山選手…その他大勢の選手、OB、関係者が出席しての盛大な会だった。発起人は元子さんの姪のあたる緒方里咲子さんのファミリー。サブタイトルに『馬場さん&元子さん“永遠なる再会”』とあって、しんみりした会というよりも、明るい会になった。


※元子さんのお別れ会に選手、OB、関係者が勢ぞろい。とても明るい会になる。

 元子さんが生前、馬場さんの法事に何度もこうした集まりを開いた。そういう時は元子さんの好みで出席者の人選が決まっていたが、今回はノーサイドといった顔ぶれだった。今までのような馬場さん中心のディスプレイではなく、元子さん自身や馬場さんとの生活感に溢れたセンスの良い展示が目を引いた。

 献花は元子さんの好きなひまわり。宴会場までの数十メートルのアプローチはハワイの熱帯林になっていて、ジグザグの小径の中にアルバムや愛用のバッグ、夫婦箸、馬場さんと元子さんが交わしたエアメール、仲睦まじい写真、その他、夫婦の生活用品がいろいろ展示されていた。その熱帯林は宴会場の背景となり、宴が進行するに連れて朝焼けから夕焼けになっていく演出。メインステージにはダイニングが置かれて、2人の好物のパンやおにぎり、ワインにビールが並べられ、端にそっと葉巻が置かれていた。その周辺には馬場さんが描いたハワイの海の油絵が数点、16文のリングシューズもさりげなく置かれている。試合道具はこれだけ…。

 そして何よりも私の目を引いたのがPWFヘビー級選手権のゴールドベルトだ。「きっと今日は出るだろう」と期待していたら、やっぱり展示されていて、テンションはMAX! 200人近くの列席者の中でも、このベルトに異常反応して駆け寄ったのは私とゴングの戦友・小佐野景浩氏だけだった。ベルトは16文シューズと違って、クリアケースに覆われていて触れることができない。そして何の注釈も書かれていない(それがいい。でもこれを見抜けなければプロ失格だよ)。そう、これこそが「本物」のPWFヘビー級黄金ベルトだからである。馬場さんの七回忌の時、後楽園ホールの1階のイベント会場にたった1度展示された。あれ以来、実に13年ぶりの御開帳だ。

 1998年に『検証 チャンピオンベルトの謎』という増刊号を作った時、裏が分かっていても、本当のことが書けない点がいろいろあった。その一つがこのPWFベルトの真実だ。馬場さんは全日本を旗揚げする72年10月に力道山家から寄贈されたベルトを翌73年2月のPWF獲得時から巻いている。これはいわゆる「テーズベルト」の精巧なコピーだが、馬場さんの腰には小さく、きつめだった。

 それだけではない。この「力道山ベルト」には「WORLDS HEAVY WEIGHT CHAMPION」という刻印があった(NAWA=WWAとしてロスで使用されたから)。全日本を旗揚げした馬場さんは73年2月に渡米してセントルイスでNWAのメンバーシップ入りが認められる。NWAに加盟した限り、自前のテリトリーのフラッグシップ王座から「世界」の名称を外さないといけない。そのために馬場さんは新たなベルトを作る必要に迫られていたのだ。


※馬場家門外不出の秘宝PWFヘビー級の黄金ベルトが13年ぶりに展示された。

 馬場さんはこの「テーズベルト」≒「力道山ベルト」に憧れていたため、デザインを踏襲して自分サイズの新ベルト作成に動く。全日本の権威の象徴にするためによりゴージャスさが求められ、純金を多用したゴールドベルトを作る指示を出す。日本での金の価格が高騰していたため、東南アジアから金を運ばせたのである。「馬場さんは顔見知りの記者たちに出張先のアジア各国から金を運ぶように依頼したんだ」ということは亡くなった竹内宏介さんから聞いていた。故菊池孝さんもその一人で「俺も香港から持ってきたし、他にも何人かで持ち込んだ」とこっそり私に教えてくれた。

 今回、展示されているこのベルトの側に座っていたカブキさんも同様の発言をしていた。「馬場さんは台湾、香港、シンガポールに行った人に頼んでいたよ。みんなで少しずつね。俺もいろんな所に金を隠して日本に帰ってきたもん(笑)。それを溶かしてそのベルトにしたのよ」。73年4月には轡田がオーストラリアに遠征し、高千穂も同年10月に轡田と豪州遠征している。直行便がないため、カンタス航空は行き帰りにシンガポールや香港に立ち寄ったようで、この時に“運んだ”らしい。

 そして突貫作業で完成したのがこの黄金ベルトだった。急がせたのには訳があった。馬場さんが12月14日、日大講堂のフリッツ・フォン・エリックとの9度目の防衛戦まで力道山ベルトを使ったのは翌日が命日だったからで、その日から「世界」の名称を外している。それだけではない。年明けにNWAのサム・マソニック会長と世界王者を日本に招聘するプランが決定していたのだ。

 そしてこの純金ベルトは明けて74年の1月23日、長崎国際体育館でのジャック・ブリスコとのダブル・タイトルマッチでデビューした(引き分けドロー)。そこでまるでNWA本部からの特別贈呈品のようにマソニック会長から新しいベルトを受け取る。ここに馬場さんはこだわったのだ。上(NWA)からの「お墨付き」や「権威」を必要とする時代だった。

 この新ベルトは27日、大阪市東淀川体育館でのハーリー・レイスとの11度目の防衛戦、29日の郡山市総合体育館でのプロフェッサー田中との12度目の防衛戦、さらに30日の日大講堂でのブリスコとの再戦まで使用された。レイスモデル初登場のシリーズで、マソニックさんは本部席で新品のPWFベルトと見比べたはずだ。先の「レイスモデルの検証」では帰国後にブリスコが赤のベルベットから黒革へ張り替えさせたと書いたが、このベルトのガッチリした革を見たらマソニック会長だって「我々も…」と思ったことだろう。


※74年1月、NWAマソニック会長から馬場に黄金ベルトが手渡された。

 しかし、この日大講堂が純金PWFベルト使用の最後の試合となった。馬場さんは「大枚をはたいて作ったはいいけど、物騒すぎて、これから先、地方や海外に持ちまわるのには危険すぎる」と封印し、自宅保管となったのだ。使用期間は僅か1週間。そうした状況からしてこのベルトに相当高額な費用が投じられて作られたことが窺い知れる。純度も高かったはず。そしてこのベルトはマソニック会長やNWA世界王者に「黄金の団体 オールジパング」を披露するための最大級の見栄だったように思える。さらにそれが翌年のNWA世界奪取に繋がったのでは、と推察する(もしかしたら75年12月5日、両国日大講堂の試合前の馬場さんのNWA&PWFベルト撮影時はこの純金ベルトかもしれない…)。

 74年3月15日、仙台でのジン・キニスキーとの防衛戦から、そっくりのレプリカ…2本目のPWFベルトが登場して、何事もなかったように使われ出した。この「影武者ベルト」はキラー・トーア・カマタ、ビル・ロビンソン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ハーリー・レイス、スタン・ハンセン、長州力、天龍源一郎らが巻くことで、次第に“本物”になって行く。そして平成元年に三冠の1本となった頃に中央台座の金メッキはすっかり剥げ落ちていた。2013年10月に馬場家に返還されるまで、このレプリカPWFベルトは“一度も途切れることなく”39年間使われ続けた。こんな長寿ベルトは世界的に珍しいだろう(最古のアジア・タッグは途切れている)。

 さて、純金PWFベルトを改めて見てみよう。鎖こそ何箇所か切れているが、中央の2つ重なった地球の立体感、研磨された大陸の質感が目を引く、何よりも金の細工はまるで昨日彫ったのではないかと思うほど生々しい。私にはメキシコ国立人類学博物館に展示されているアステカ等の金製品と同じ色合い、同じ輝きに映った。もちろん、数試合しか使われていないから、ベルトの革自体に汚れや損傷、湿気による縮みが全くない。

 力道山ベルトもテーズベルトの精巧なコピーだが、細部を見ると、こちらも元祖や中興のベルトに負けないレベルの高い工芸技術であることが窺える。日本の細工職人の技巧は実に素晴らしい。正直、PWFは個人的に思い入れのあるタイトルでも、好きなベルトではなかったが、観察すればするほど「美しい!」と思った。次にまた会えることはあるのかなあ…。「ジャイアント馬場博物館」を作ってほしい。「昭和BIミュージアム」なら、もっと嬉しい。






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