第79回 小橋建太復帰戦

 試合開始30分前に日本武道館に入る。当日券売り場には長い列ができ、入り口付近は観客でごった返していた。プレスルームに荷物を置くと、とにかく場内へ。観客席は久々にギッシリと埋まっていて、第0試合からいい感じで盛り上がっていた。観客の表情も期待感に溢れている。少しずつ小橋の復帰戦が近づいてきていた。
 ビックマッチ仕様の長いオープニングでも、拍手はやまない。音楽が止まると、一斉に客席からは「小橋!」という声が起こる。まずは対戦相手である井上雅央の入場だ。緊張しているが、どこか誇らしげな雅央がリングに入ると、再び客席からは小橋への声援がこだまする。
 取材用のノートを忘れていたことに気づき、一旦プレスルームに戻ったが、すでにそこには誰もいなかった。慌てて場内に戻ると、珍しくリングアナの前口上が始まる。

「約束した、必ずリングに戻ってくると」

“約束したというよりも、戻ってくることはもともと決まっていたんじゃないか”、そんなことを考えていると、武道館に『GRAND SWORD』が響き渡った。それと同時に14,200人(超満員)の観客からは大きな「小橋」コールが起こる。なんとなくいてもたってもいられなくなった僕は、アリーナの外周をゆっくりと歩き始めた。
 小橋は場内を見渡しながらゆっくりとリングに入る。ロープを開けるのは同期の菊地毅。セコンドとしてコーナーに付くのは正パートナーの本田多聞だ。リング下には志賀賢太郎の姿が見える。対戦相手の雅央を含めた全員ともどこか嬉しそうだ。
 入場ゲートの脇、選手の控え室を出たあたりで腕を組んで見ていたのは秋山準。この日のメインイベンターである秋山の表情は、小橋の復帰戦を目の当たりにして緩んでいるのかと思ったが、意外なほど硬い。試合がコミカルな展開になっても、それは変わらなかった。もしかすると、それは感極まりそうな自分を必死に抑えていたのかもしれない。
 ゆっくり歩いていくと、マイティ井上レフェリー、浅子覚トレーナー、金丸義信、川畑輝鎮、平柳努らが試合の様子を眺めているのを見つけた。森嶋猛はひな壇席の後ろに上がり、背伸びするようにしてリングに見入っている。もちろん、この場にいないレスラーたちもみな控え室でモニターを見つめているんだろう。
「どうも!」
 その声に振り向くと、日本テレビのブース近くにSUWAがいた。僕も会釈を返し、再びリングに目を移そうとすると、近くに日本テレビの実況アナウンサーたちの姿を見つけた。みな立ち上がり、第1試合なのに早くも感激した表情を見せている。彼らも試合を見ながら、これまでのこと、そして、これからのことに思いを馳せていたのだと思う。
 秋山が見ていた場所の反対側まで来ると、バイソン・スミスとロデリック・ストロングの姿が目に入った。ロデリックは満員の武道館を見渡し、興奮を隠せない様子で、嬉しそうにバイソンへ視線を送る。小橋への声援を聞き、外見に似合わない柔和な笑みを浮かべていたバイソンは、ロデリックの視線に気付くと、ぐっと親指を突き立てた。逆側に視線を移すと、もう秋山の姿は見えなくなっていた。
 僕はゆっくりと来た道を引き返す。リング上では小橋のチョップが炸裂し、雅央が苦悶の表情を浮かべながら必死に耐える展開が続いていく。僕がNOAHに帯同してきた時に何度も目の当たりにしていたシーンだ。決して一昨年の12月のような特別な試合じゃない。どこにでもあるいつも通りの風景だ。でも、“それが良かった”と思った。
 小橋の肉体は遠目に見ても明らかに引き締まっていた。膝や腰の調子が良い時にしか出さない滞空式のブレーンバスターもぶれることなく完璧に決めた。試合後、雅央はこのブレーンバスターが「好調のバロメーター」と語っていたらしい。投げられた時、雅央は肉体的にはダメージを負っても、心の中では笑顔だったのかもしれない。
 試合の残り時間が少なくなっていく。小橋は一気にチョップの回転を上げると、ハーフネルソンスープレックスでぶん投げ、ラリアットの体勢に入る。雅央も最後の抵抗を見せたが、小橋は剛腕を振り抜く。この当たりの強さからも小橋の調子の良さがうかがえる。当然これでカウント3。小橋は復帰戦で完璧な勝利を手にした。
 雅央を称え、再び客席を見渡す小橋。場内のムードは、かつて小橋が絶対王者と呼ばれた時代にタイムスリップしたように、爽やかな空気が漂っていた。“そうだ、プロレスの会場ってこういう感じなんだよな”僕は昔の感覚を思い出していた。
 試合後。バックステージに戻った小橋の周りには、門馬さん、菊池さん、小佐野さんと言ったベテラン記者から、専門誌、スポーツ新聞などの新人記者まで幾重にも人垣ができていた。どんな人の質問にも小橋は丁寧に答えていく。記者たちはひそひそ声で「チョップの数はいくつだった?」なんて話している。どうやら今回は103発のチョップが繰り出されたらしい。
 コメントの中で小橋は「今後も病気とは付き合って行かなくてならないし、いつも考えていかなきゃいけない」という主旨の発言と同時に、「悩んでも仕方ないし、そういうことは引退してから考えることにする」という矛盾した発言をしていた。しかし、小橋にとってそれは両方とも真実なのだろう。腎臓ガンという病との戦いは続くし、逃げられるわけでもない。そして、逃げようとも思っていない。それと同時に、そこだけにとらわれているような自分を見せてしまうのはプロレスラーとして失格だと思っているのだろう。
 引退した方がいいんじゃないか。そういう意見を持つ人もいるだろうし、それは否定しようがない。でも、小橋はそういう意見や考えをすべて分かった上で、今の生き方を選択したのだから、僕はそれを全面的に尊重したいと思う。
「この後もう1試合あるんで」という言葉を残し、小橋はコメントブースを後にした。“そう言えば、大会終了後にサイン会があるんだっけ”そんなことを思い出しながら、僕も自分の仕事に戻る。
 全試合終了後。僕は新王者となった秋山のコメントを聞き終え、それをすべてテキストに打ち込む作業に没頭した。その横をいち早く仕事を終えたマスコミやスタッフ、レスラーたちが「お疲れ様」と言葉を残して去っていく。
 すべての仕事が終わり、僕はホッとした気持ちで場内に出てみると、さっきまでの歓声が嘘のように、客席には誰ひとりいない。リングも撤去されて、ただ照明やひな壇撤去を担当するスタッフたちが慌ただしく作業をしているだけだった。
 ドッと疲れの出た体を引きずるように、武道館の出口に立った僕の目が、まだ照明が灯ったままの売店で止まる。そこから「ありがとう!」と小橋の力強い声が響いてきた。時間は21:45。すでにサイン会が始まってから1時間以上立っているはずだが、まだファンの列は長い。それでも小橋は1人ずつ丁寧に応対していた。
 小橋はこの日、誰よりも早く12時過ぎには武道館に入っていたという。“記者になりたての頃、小橋がファンにサインや写真撮影を頼まれ、それに応じているのをこんな風によく見ていたっけ”“全員に声をかけ、最大限にサービスするから、コメントを聞くために、時には数時間も待ったことがあったなあ(苦笑)”そんな感慨に耽りながら、僕は武道館を後にした。相変わらずな小橋建太の姿を見て、とても嬉しかった。




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