第61回 新しい“なにか”

 先日、漫画家のつの丸さんをインタビューした時に印象的な言葉を聞いた。

「応援してくれた読者は裏切れない。ただ、読者へのサービスで描くかと言ったら、そういうわけでもない。読者が喜ぶようなストーリーにはしてないけど、読者が嫌がることもしてないつもりなんだけどね。ひねくれ者だから、読者の予想通りになるのが一番イヤ。笑わせるにしろ、感動させるにしろ、読者の予想を超えたところで話を作っていきたいので。期待を裏切らないように、予想は裏切るようにって感じかな」

 つの丸さんはジャンプ全盛期の90年代に競馬漫画『みどりのマキバオー』を4年間に渡って連載していた。この作品はアニメ化までされている。そして、昨年からはその続編『たいようのマキバオー』を週刊プレイボーイ誌上で描くようになった。
 現在の漫画界は続編ブーム。「え!?この漫画の続編までやってるの?」と驚くことも多いが、それを生み出す漫画家たちには読者が考える以上の苦悩がある。『たいようのマキバオー』の読者ならわかると思うが、前作のキャラクターがほとんど出てこないのだ。登場すれば読者は喜ぶし、反響だって大きくなる。でも、それをやったらなにも生まれないし、前作とは違う魅力を見出すこともできない。新しい読者を付けることもできないだろう。だから、この続編は前作の主要キャラ、それこそ主人公でさえも名前すらほとんど出てこないのだ。
 期待を裏切らないように、でも、予想は裏切るように――。丸藤正道vsKENTA戦を見ていて、僕の心の中に浮かんできたのはこの言葉だった。
 丸藤とKENTAは新しいものを見せようとしていたんだと思う。だが、今のプロレス界に本当の意味で“新しいもの”なんて存在しない。これが昔ならUWFスタイルをやれば新鮮だったし、独創的な飛び技を出すだけでその試合の意味を作ることができた。しかし、今は全てがやり尽くされてしまった時代だ。その中で丸藤とKENTAがやったことは、ちょっとしたことでもいいから、丁寧に丁寧に今までと違う“なにか”を表現することだった。四天王プロレスとも違うし、2年前に自分たちが見せたベストバウトとも違う“なにか”を。
 それは丸藤が何度も見せた独創的な技だけじゃない。丸藤が一方的に攻める展開の中で、これまであまり見せることのなかったレスラーとしての怖さを発揮していたと思うし、逆にこれまで直線的な激情ばかりを披露してきたKENTAは、攻められることによって内に内にと進んでいくような内包的な感情を見せていた。
 張り手1つにとっても、最近の丸藤はしっかりとしたフォームで顔面を的確に打ち抜くようになってきているが、これも丸藤があまり見せてこなかったレスラーとしての感情、レスラーとしての強さを表現している場面だと思う。
 KENTAだってそうだ。感情をぶつけるということだけを取れば完璧のように思われているが、激しい打撃戦の中だけに感情があるわけではない。一方的にやられていたって、そこからほとばしるような感情がなければいけないのだ。これまでKENTAのファイトの中には爆発的な気持ちはあっても、四天王と呼ばれる世代の人間たちに見られるもっと深い部分にある感情はなかなか見出せなかった。でも、今回の戦いからはそんな重厚さが感じられた。
 一番印象に残ったのは、KENTAがコーナーから断崖式のブレーンバスターを狙った場面。なんとか凌いだ丸藤は、そこから同じようにブレーンバスターを狙わず、あえてデッドリードライブを繰り出した。
 この場面で僕は東京ドームでの小橋vs秋山戦を思い出した。2004年の年間ベストバウトを受賞したあの試合で一番インパクトを残したのがエプロンでの攻防。小橋が断崖式ブレーンバスターを繰り出せば、秋山もコーナーからの断崖式エクスプロイダーを見せたあの場面だ。
 当然勝負という流れの中での出来事だから、大きな意味はなかったかもしれない。しかし、丸藤はブレーンバスターで投げるのではなく、あえてもっとシンプルなデッドリードライブという技を選択した。そこに僕は“違うなにか”を見せようとしている気持ちが表れていたんじゃないかと思う。
 一点集中という古典的な攻撃、シンプルだけどエグい独創的な技、いつも以上の感情、長期戦を見据えた戦略、終盤まであえて出さなかった必殺技、etc…。なにかを変えたいという思いが沢山詰まった一戦だった。KENTAの七番勝負最終戦や2年前の武道館で行われた2試合よりも個人的には好きな戦いだったし、意味のある試合になったと思っている。
 もちろん完璧な試合だったとは言えない。ネットなどでこの試合の評判を見ていると、賛否両論が巻き起こっている。前回のコラムで書いたように、様々な意見が起こる試合になるべきだと僕は思っていたし、だからこそ沢山の問題点も見えてきたんじゃないだろうか。
 例えば、丸藤が序盤に見せた足攻めは確かに効果を見せていたが、中盤戦以降はほとんど見られなくなってしまい、戦略的には詰めの甘さが感じられた。独創的な攻撃は何度もどよめきを起こしたが、あまりに多用してしまうとそのインパクトがぼやけてしまうし、なんとなく気持ちの盛り上がりを削いでしまう。ここぞという場面に1つだけ繰り出した方が効果的だったかもしれない。和田京平レフェリーが裁くことは話題にもなったし、意味もあったとは思うが、普段から丸藤やKENTAの試合を裁いているレフェリーこそがこの試合には相応しかったと僕は思っている。全体的に見て、もっともっと針を振っても良かったんじゃないだろうか。
 そして、やはり気になったのは試合後。2人は健闘を称え合うと、コーナーに昇り客席に向けてアピールをしていた。厳しい指摘となってしまうが、2人は勝てなかったことを悔しがり、ファンに詫びるのではなく、負けなかったことに安堵し、いい試合を披露できたことを誇っていたと思われても仕方ない。これを応援してくれたファンへの裏切り行為だと取る人だっているはずなのだ。
 僕が一番考えさせられたのは、試合後の選手たちの感覚とファンの反応のギャップだった。2人の意図を理解しているファンもいれば、「前よりつまらなかった」「期待外れ」という意見も多い。一見の観客や裏の裏まで見ているマニアには楽しめた試合だったのかもしれないが、普通のプロレスファンには伝わらない試合だったのかもしれない。そこには自分たちがやろうとしたことをうまく表現できなかった選手の責任もあるし、それを理解できないファンの感覚にだって問題はあるかもしれない。
 そのズレが発生してしまった最大の責任は、僕たちプロレスマスコミにあるんだと思っている。試合の裏側にある選手の心理を聞き出し、時には試合の中から切り出し、それをファンに伝えていくことで、ファンもいろんな感じ方をするように育っていく。そんな繰り返しがプロレスという分野を作ってきたはずなのに、ここ10年ほどでそれが記者の自己満足にまで劣化し、結果的にマスコミの役目が疎かになって、様々な歪みを生んでしまった。僕が何度もこのコラムで書いてきたファンが選手より前に進んでしまっている状態(しかもそれはあくまで錯覚だという現状)になってしまったのはマスコミの責任が強いと思う。そんなことまで考えさせられた。
 話を試合内容に戻そう。この一戦に対する最終的な僕の評価はこうだ。
「変えようという気持ちは伝わった試合だったが、それはあくまでも枠の中での話で、枠を破壊し、新しい価値観を創造するところまでは至らなかった」
 昭和のプロレスファンからすると、いくらシンプルな試合作りをしていたと言っても、やはり大技が多く、複雑で粗い印象を受けただろうし、逆に今のプロレスファンからすると、ちょっと物足りない。両方を満足させたかったはずだが、中途半端になってしまった部分は少なからずあるだろう。
 でも、それはネガティブな評価ではなく、結果的には良かったんじゃないかと思っている。少なくとも僕の中では様々な気持ちが浮かんでくるような“語れる”試合だったし、ここまでいろんなことを考えさせるような試合はここ数年なかった。ベストバウトに選ばれたとしても、文句はまったくない。個人的なことを言わせてもらえば、新しいことをやろうとしている同年代の選手を応援したいという気持ちや、記者としてそれをうまくファンに伝える媒介でありたいという思いも改めて持つようになった。
 2人は試合後、満足げな表情を浮かべていたが、数日経った今の気持ちは果たしてどう変化しているのだろう。たぶんもっともっと変えたい“なにか”が沢山出てきているんじゃないだろうか。この試合をキッカケにして起こっていくだろう変化を今後もじっくり見極めていきたい。大きかろうと小さかろうと、2人の選手のみならず、周りの選手やマスコミも含めて。




<<Back  Next>>
[終了]村上謙三久の『ファン上がり記者』トップ
(C)辰巳出版