第43回 プロレスED発症の理由

 かつてとあるスポーツ新聞で“プロレスED”という言葉が使われたことがある。新日本プロレスの棚橋弘至が、当時セミリタイア状態だった藤波辰爾のことを指して「藤波さんのプロレスEDを治す」と発言したのがことの発端なのだが、現実的に今、プロレス界にはこの“ED”が大流行しているような気がする。
 プロレスを見ても興奮しない。楽しめない。熱狂できない。感動しない――いくらでもネガティブな言葉が思い浮かぶ。正直なところ、プロレスを長年見ている人間とすれば誰しも一度は感じたことのある感覚だろう。10年前からプロレスを見ていて、未だにずっと最初から同じテンションで見続けている人間もいないわけではないだろうけれど、それはそれこそ“プロレス絶倫”とでも言うべき特殊な人ではないだろうか。
 プロレス氷河期なんて言葉を聞いたこともあるけれど、そのプロレスEDの理由として、昔に比べてプロレスがダメになったという意見を挙げる人も少なくない。昔のプロレスには戦いがあった。総合格闘技の隆盛に飲み込まれてしまった。暴露本が悪い。他団体化やレスラー数の急激な増加に影響がある。手の届かない人間だったプロレスラーがどこにでもいるような一般人になってしまった。プロレスマスコミ=マスゴミだ。団体のフロントがプロレスをダメにした。頭から真っ逆さまに落とす技が流行して、プロレス本来の面白みがなくなってしまった。エンタメ系が増えて、真剣に見る気力がなくなった。こんな数々の意見は、ある意味、全て的を射ている。ただ、今回は僕なりに違った視点でこのプロレスEDを紐解きたい。

 このコラムを読んでいる皆さんは、だいたいどのぐらいのペースでプロレスの試合を観戦しているのだろうか?
 今や都内・関東近県に住んでいれば、毎日のようにプロレスが見られる環境になった。ほんの十数年前だったら予想もできなかった状況だが、不況とは言っても、地方の大都市であれば東京と同じく飛躍的に興行数は増えているだろう。
 プロレスを好きで好きで仕方ないファンとすれば、とにかく生で試合を観戦したい。金銭的な問題はあるにせよ、沢山の試合を見られる環境になったことが素直に嬉しいと感じる人もいるだろう。
 僕自身、十代の頃はプロレス観戦がしたくて仕方がないただの一ファンだった。高校時代は昼飯代を極限までに抑え、それをコツコツ貯めてチケット代に充てていた。とはいっても、学校の授業や部活など色々とあるわけで、月に観戦できるのは1〜3回程度。会場にいったら、“一瞬でも見逃してなるもんか!”と気合いを入れてリングを見つめていたのを覚えている。
 しかし、今現在、“一瞬でも見逃してなるもんか”と思って試合を見ているかと問われたならば、素直な答えは『NO』だ。そして、一般的なファンであっても、この質問に『YES』と答えられる人は少ないのではないかと思う。もし、このコラムを読んでいる方の中で『YES』と言える人がいるならば、その人は幸せだ。羨ましくすら思う。
 そういう現状を考えると、「プロレスへの情熱がなくなってしまったんじゃないか?」という結論を出してしまいがちだが、実際は違うんじゃないかというのが僕の意見だ。それは個人個人の気持ちが原因なのではなく、プロレス界が置かれている今の状況自体が原因なのではないだろうか。そう、そこにプロレスEDの理由がある。
 プロレスを観戦するということのハードルがここ10年で驚くほどに下がってしまった。(その前に、インターネットや携帯電話、CS放送など直接的に観戦しなくてもプロレスに触れることが簡単になってしまったという部分がもちろんあるけれど、それはひとまず今回は置いておく)そりゃ、観戦できるならばといそいそと会場に出かける。だが、たぶん人間には許容量というものが決まっていて、当然一生のうちに見ることができるプロレスの試合数も決まっているはずだ。それを越えてしまうと、観戦という行為にモチベーションが持てなくなり、いつしかプロレス自体にも興味を失っていく。
 一般の人からすると、テレビ中継も深夜に追いやられ、特番の放送もほとんどなくなり、プロレスに接する機会が減ってしまっているが、プロレスファンの立場からすると、過剰なほどプロレスとの接点が増えてしまった。それこそがプロレス凋落の原因ではないだろうか?
 ファンの感覚を持ってプロレス記者をすることはできるけれど、多い場合、100興行以上の試合を取材する現在のプロレスマスコミの立場で、プロレスファンであり続けることは不可能だ。さすがに年間100興行以上観戦するファンはほとんど皆無だから、一ファンとして想像すると、うらやましすぎる状況だと思われるかもしれない。しかし、想像以上に沢山の試合を取材する行為は苦しい仕事だ。
 昔、ここまで他団体化が進んでいない時代は違っていた。試合数は少ないから、1試合1試合をしっかりと取材し、かみ砕いて記憶する余裕があった。ベテラン記者が昔のことを事細かに覚えているのに、若い記者は数年前のことすらあまり覚えていないということが多々あるが、そこには絶対的な試合数増加という原因がある。当然1試合に対するページ数も少ないから、思い入れも持てない。プロレスマスコミが力を失った理由の一端がそこにはある。正直、僕はこれまで取材した試合が記憶の中でゴチャゴチャになってしまい、なかなかちゃんとした記憶を呼び起こすことができない。
 ファンとしても観戦する試合が増加すること自体は、プロレス界にとって着実にお金が落ちてくることになるから、プラスになるように一見思えるが、実はそれが突き進み過ぎて、プロレスに対する興味が減退してしまっているような気がする。
 たしかにプロレスファンが減ってしまっているから、当然、1人のファンから吸い上げる金額が大きくならないと業界全体が凋落してしまう。ただ、その歪な形が限界を超え、破綻してしまっているのではないだろうか。GPWAができた時、各団体の日程を調整するという話があったが、今こそそれを徹底しないと、さらにプロレス界の状況は悪化するだろう。ローカルインディーの再編だって急務だと思う。地方巡業を行う団体側も大会数を減らす勇気が必要となってきているのかもしれない。




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