第37回 三沢と川田と当時の僕(25)

 三沢光晴の復帰。どんな傷でも時間が経てば癒えるわけで、いつかは復帰するのは当然と言えば当然の出来事だ。しかし、三沢が戻ってきたことで、全日本は大きな変化を見せる。
 後に一部では『三沢革命』と呼ばれるようになる改革を考えついたのは、長期の欠場の影響が強い。ジャンボ鶴田欠場後、常に全日本を先頭に立って引っ張ってきた三沢が、一度歩みを止め、自分自身と向き合った時に、「このままではいけない」という思いが込み上げてきたのだろう。四天王プロレスには行くところまで行ってしまい、先が見えないような錯覚に陥ることもファンとしてはあったし、閉塞感を感じることも少なくなかった。だからこそ、ジャイアント馬場の下で、自分自身の思想を全面に出すようなことがなかった三沢が、この欠場をキッカケに大きな変革を訴えたことに対し、ファンは大きな期待を感じたはずだ。小橋健太の新世代宣言も相乗効果を生み、東京ドームで一度は最終回を迎えたかのように思えた全日本マットの次なるスタートがおぼろげながらにも見えてきた。
 具体的なものがいきなり示されたわけではない。ただ、三沢が改革を宣言したことで、他の選手の考えも一気に表面化してきた。それが許される雰囲気にすることこそが、三沢がしようとしていた改革の大きな部分だったが、三沢の復帰戦となった『98’サマー・アクションシリーズ2』開幕戦でそれが露わになる。
 まず起こったのがGETの不協和音。三沢たち上の世代に対抗するために結成された小橋とエースのコンビにすきま風が入ったのだ。三冠王となった小橋に対するエースのジェラシーが原因だと推測されたが、三沢の改革発言の影響も否定できないだろう。大きなうねりが生まれる時に大事なのはまず先に動くこと。後がないエースが動いたことで、それが大きな流れに繋がっていく。
 翌日の後楽園大会で再び小橋とエースが誤爆をキッカケに乱闘を展開。エースがスミス、ウルフらとの合体をアピールしたのだ。滅多打ちにされる小橋を助けたのは、前シリーズに三冠王座に挑戦を果たした秋山だった。
 この裏側には、三沢がタッグパートナーを秋山から他の選手に変えたいという意向を持っていたことが見え隠れする。ある意味、それを三沢自身が口にすることによって、かねてからタッグを組みたいという考えを持っていた小橋と秋山が合体することへ導いたとも言えるはずだ。
 そして、この開幕2戦目でその秋山から小川良成がフォール勝ちを奪ったことが、さらに変化のスピードを加速させる。ベテランとはいえ、まだ当時のヘビー級とジュニアヘビー級の間には大きな壁があった。秋山は三冠挑戦を果たすほどにまで成長していただけに、その秋山からの勝利は、何かを予感させるには十分なインパクトを与えた。
 ここで一気にこのシリーズで起きた変化を羅列してみよう。GET解散を受けて秋山が超世代軍から離脱し、小橋とタッグを結成。それに志賀賢太郎や金丸義信が加わることで、バーニングが始動。三沢は当時、聖鬼軍に所属していた小川をパートナーに指名し、最終戦後、正式にアンタッチャブルがスタートする(チーム名は後に付けられた)。わずか1シリーズの間にここまでの変化を見せるなんてことはこれまでの全日本には考えられなかった。三沢革命は全日本マットの勢力図を一瞬にして変えたのだ。
 この夏、僕は再び一人旅と組み合わせて全日本の地方大会を何大会か観戦している。偶然にも三沢&秋山の超世代軍最後のコンビ結成やバーニングが始動した戦いを観戦することができた。しかし、この動乱の渦中に川田がいないことに寂しさを感じずにはいられなかった。最終戦では垣原賢人と対戦し、わずか6分52秒で勝利しながらも、ノーコメントを貫いた。
 バーニング、オブライト&高山&垣原のU−TOPS、エースたちのムーブメント…。沢山の流れに置いてけぼりにされいるようにも見えた川田。続くジャイアントシリーズでは勢いに乗る小橋&秋山組を返り討ちにして世界タッグ王座を防衛し意地を見せたが、それ以上の自己主張は感じられなかった。
 小橋はバーニング・ハンマーを初公開し、三沢に真っ向勝負を仕掛け、それが三冠戦へと発展。しかし、三沢は小橋の猛攻を凌いで、逆に三冠王座奪還に成功する。続く最強タッグにはベイダーやバード・ガンの参戦が発表され、三沢革命は劇的な成果を見せ始めた。その中でなかなか変化に順応できず、川田は中心から外れていってしまう。しかし、翌年、三沢革命とはまったく異なる大事件が全日本マットを襲い、全てを濁流と共に押し流すことになる。




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[終了]オレだけの四天王プロレストップ
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