第42回 三沢と川田と当時の僕(28)

 ジャイアント馬場が肝不全で亡くなったというニュースが日本全国を駆けめぐったのは、1999年2月1日のことだった。この日、僕自身がどんな行動を取り、果たしてちゃんと仕事ができていたのか、実際のところまったく覚えていない。それだけショックだったのだろう。ただ、テレビにかじり付き、翌日はスポーツ新聞を全紙買い集め、とにかく必死に情報をかき集めたことだけは覚えている。今も僕の家にはこの日のスポーツ新聞が残っている。
 もちろん、ジャイアント馬場という絶対的な存在がなくなっても、全日本プロレスは続く。2月13日のファン感謝デーでは、5・1東京ドーム大会が『ジャイアント馬場引退記念興行』になることが発表された。川田は三冠戦で負った怪我のため欠場する中、無事大会を終えた三沢は笑顔まで覗かせながら、決意のコメントを発表している。三沢はあくまでも未来を見据え、新たな一歩を踏み出した。それが三沢がこれまで続けてきたやり方だし、なにより馬場から学んだ生き方だった。
 全日本マットに目を戻すと、欠場中の川田が三冠王座を返上したため、新王者決定戦の開催が発表された。ベルトを争うのは川田のパートナーである田上と、全日本マット制圧を目論むベイダーの2人。前年の最強タッグから全日本に本格参戦したベイダーは凄まじい勢いを発揮。小橋を撃破し、三冠王座にリーチをかけた状態だった。当時、IWGPと三冠の両方を制したレスラーはおらず、モチベーションも高かったはず。全日本はベイダーを中心に回り始めていた。
 決定戦ではベイダーが圧巻の破壊力で田上をなぎ倒し、三冠ヘビー級王座を奪取。誰がベイダーを止めるのかが、新たな全日本マットのテーマになった。ドーム大会まであと2ヵ月。その間にはチャンピオン・カーニバルもある。否応なく三沢に対する期待感は高まっていった。事実、三沢は早い段階からベイダーとの対戦を視野に入れていることをコメントしている。
 そして、川田も復帰に向けて始動。一時期は三沢や小橋が新しい全日本を作ろうとする動きが注目されていたが、一旦はその改革の動きがストップ。みな主義主張を抑え、とにかく全日本の全選手が師匠である馬場の引退興行に向けて全精力を傾けることになった。
 ジャイアント馬場が急逝し、同時期にジャンボ鶴田と前田日明が引退。四天王・三銃士世代が本当の意味でプロレスを担う時代に突入した。




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[終了]オレだけの四天王プロレストップ
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